『10』に代表されるように、サッカー界においても度々話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

仙台、千葉を経て2009年から広島でプレー。現在も広島で活動している中島浩司(写真中央)

◆ユース出身選手の“登竜門”。髙萩洋次郎、森脇良太、柏木陽介も背負った背番号

 今回取り上げる背番号『35』は、誰もつけない空き番号となったシーズンも多い。一方でユース所属の選手がトップチーム昇格前につけることが多く、その後の活躍への土台となった番号とも言える。

 固定背番号制が始まった1997年に35番を背負ったのは、イングランド出身のMFクルーク。当時34歳とベテランの域に入っていたが、正確なキックを生かして攻撃的MFやボランチ、さらに最終ラインでも安定したプレーを見せた。

 現在なら下位のクラブでも残留争いで一定の注目を集めるが、当時のJリーグは降格がなく(まだJ2が創設されていない)、上位のクラブ以外は全国的な注目度が低かった。この年のサンフレッチェの年間順位は17チーム中12位で、クルークの活躍もあまり目立たなかったが、もっと評価されるべき存在だったことは記しておきたい。またピッチ外では、この年の8月にダイアナ元皇太子妃が不慮の事故で亡くなったときに、ひどくショックを受けて落胆していた。同妃の存在が英国人にとって、いかに大きいかを実感したエピソードでもある。

 クルークの背番号が7番に変わった1998年から2年間は、DF山下一弥が35番をつけたが、公式戦の出場はなかった。空き番号となった2000年と2001年を挟み、2002年途中から背番号35を背負ったのはFWエルツェッグ。クロアチア代表にも選ばれた実績を持つストライカーで、J1残留争いでの貢献が期待されたものの、リーグ戦では1得点のみに終わり、サンフレッチェもJ2に降格した。

 サンフレッチェが初めてJ2で戦った2003年、当時ユース所属の高校2年生だったMF髙萩洋次郎が、ユース所属のままトップチームの試合に出場できる『2種登録選手』として、背番号35をつけてJ2第4節でJリーグデビュー。16歳8カ月3日でのリーグ戦出場は現在もクラブ史上最年少の記録で、この年の11月にはプロ契約を締結している。

 翌2004年、髙萩同様にユース所属の高校3年生で2種登録選手だったDF森脇良太が、35番をつけてヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)で公式戦デビュー。2005年にもユース所属の高校3年生で2種登録選手だったMF柏木陽介が、同カップで35番をつけて公式戦デビューを果たしている。

 2006年から2008年まで空き番号だった35番は、2009年にMF中島浩司が受け継いだ。本人いわく、クラブからは1ケタの数字を提示されたが「DFのイメージが強い番号で、自分のプレースタイルとは違うので断った」とのこと。そこから2ケタ以降で検討するうちに35番に落ち着いたが、「もともと背番号に、あまりこだわりはなかった」のだという。

 登録ポジションはMFだが3バックの中央でもプレーし、1年目からチームに欠かせない存在に。2012年からは出場機会が減ったものの、同年には数少ない出場機会で勝利につながる得点を決めるなど、バックアップとして貴重な働きを見せ、同年のJ1初制覇と翌2013年の連覇を支えた。現役引退を発表して迎えた2013年の最終節では試合終了間際に交代出場し、優勝の瞬間をピッチ上で迎えるという見事な現役生活のフィナーレだった。

 2014年に背番号35を受け継いだDF大谷尚輝は、期限付き移籍でサンフレッチェを離れた2015年を挟み、2016年も35番をつけたが、同年途中に再び期限付き移籍で退団。その後は2017年から2022年まで空き番号となっていた。

 長い空白の時を経て今年9月、ユース所属の高校2年生・MF中島洋太朗がプロ契約を締結し、背番号が35となった。前述した中島浩司の次男で、小学生のときからサンフレッチェのアカデミーでプレーし、父と同じ背番号でプロとしての第一歩を踏み出している。

 確かな技術と戦術眼が持ち味で、2024年シーズンまではユース所属のまま、2種登録選手としてプロチームの練習に参加する予定。U-17日本代表でもあり、今年11月に開幕するU-17ワールドカップでも活躍が期待される。クラブの未来を担う一人として、サンフレッチェでも早い時期に公式戦デビューのチャンスがあるかもしれない。