カープが球団史上初の3連覇を達成した2019年、惜しまれながらも現役引退を決断した新井貴浩氏。この短期連載では、今もなお多くのカープファンに愛される背番号25が自身の野球人生を振り返っていく。

 第1回は、広島に生まれた新井氏が少年時代、旧広島市民球場で味わった感動と興奮を回顧する。

少年時代の思い出を懐かしそうに語る新井貴浩氏

◆“プロ野球選手”ではなく“カープの選手”になりたかった

 僕は広島出身で両親もカープファンなので、『野球と言えばカープ』という環境で育ちました。そんな環境でしたので、当然僕もカープファンでした。少年時代のヒーローは山本浩二さんです。

 旧広島市民球場に行ったときの思い出も忘れられません。初めて球場に連れていってもらったときは、とにかくドキドキしていました。当時からプロ野球の本拠地としては小さな球場でしたが、少年時代は『大きいな、これが広島市民球場か』と思ったものです。球場の中に入り、カープの選手を見た瞬間は、「あ、あの選手があそこにおる!」と言いながら、テレビではなく、生でカープ選手を見られたことに感動したことをよく覚えています。

 市民球場と言えば、名物のカープうどん、カープ焼きそばです。これも楽しみの一つでしたし、本当に普通のカープファンとして、市民球場での観戦を楽しんでいました。あの球場はグラウンドとスタンドの距離が近かったのですが、一塁側カープベンチが見たいので、だいたい三塁側内野席から観戦していました。キャッチャーミットに球が収まる音、そしてバットでそれを打ち返す音、それが印象深かったですね。

 そんな少年だったので、小さい頃から夢はプロ野球選手になることではなく、〝カープの選手になること〟でした。学生時代、自分は下手くそだったので、本気でプロにいきたいと思ったのは大学4年になってからです。ずっと『なんとかプロにいきたい、カープに入りたい』と思って練習していただけに、1998年秋のドラフトでカープに指名されたときは、夢が叶った瞬間でした。そこで少年時代からの夢が叶い、とにかくうれしかったことは忘れられません。

 入団発表のときに初めてカープのユニホームに袖を通しましたが、「カープのユニホームじゃ!」と改めて思いました。カープのユニホームを来ている自分を鏡見て、まさにこれが夢見ごごちだと、そう思いましたよね。