20年間のプロ野球人生の中で、13年間カープの主力として活躍してきた新井貴浩氏。短期連載3回目となる今回は、プロ入り当初の思い出、そして少年時代から憧れの存在であり恩師でもある「ミスター赤ヘル」について語る。

2003年、当時の山本浩二監督に4番に抜擢された新井貴浩氏。山本監督最終年の2005年には本塁打王に輝いた。

◆憧れの浩二さんには迷惑をかけた

 プロ入り当初から練習漬けの毎日でしたが、1年目から一軍で試合出場の機会をもらうことができ、年々数字が上がっていきました。ですが、“プロでやっていける自信”というのは、正直分からない状況でした。ふと気付いたら、『ちょっとうまくなっているな』と言うイメージです。無我夢中でシーズンを駆け抜けて、オフに少しだけそれを感じるくらいでした。やっている最中は無我夢中ですよね。プロ3年目が終わったあたりから、ようやく『ある程度、プロでやっていけるかもしれない』と思いましたね。

 そういう意味で言えば、泥臭くてセンスはありませんでしたが、体が強くて猛練習にも耐えられる頑丈な体があったからこそ、長続きしたのかもしれません。そう考えると、僕はカープというチームカラーに合った選手だったのかもしれないですね。丈夫な体に生んでくれて育ててくれた両親にも感謝です。今でもそれは思います。

 少しずつではありますが、右肩上がりで毎年数字は上がり続けましたが、2003年に4番を任されてからの2年間は苦しかったですね。4番ということで全然思うように結果が出なくなって、あの時に初めて野球をするのが怖くなり、グラウンドにいくのが怖かったという経験をしました。

 当時は少年時代から憧れていた山本浩二さんが監督でした。浩二さんは基本すごく優しい方で、自分がベテランになってからはよくお話させていただいていました。ですが当時の浩二さんはすごく厳しかったですし、特に自分には厳しかったと思います。打っても褒められたこともなかったですし、怒られたことは多々ありました。

 今考えてみると、やはり4番育成ということを意識されていたのだと思います。ミスター赤ヘルとして、4番として長年プレーをされていた方ですから、もっと強く、もっとうまくなって欲しかったのだと思います。当時の僕は必死だったので、全然気付くことができませんでしたけど、後々考えるとそれが浩二さんの愛情だったんだなと思わされます。

 4番を任されて全く打てなかった2年間を経て、2005年にはホームランを43本打つことができ、ホームラン王のタイトルを獲得できました。ですが、浩二さんに恩返しできたと言う感覚は全くはありませんでした。

 あの時代、カープの歴史でいう低迷期にあたりますが、浩二さんが監督の間に良い思いを全くさせてあげられなかったですし、迷惑しかかけていなかったということです。ですから浩二さんには苦労をかけてしまったという思いが強いですね。