目的によって手段(戦術)が変わる

 9回裏、江夏が投げた初球がはじまりだった。この回先頭の羽田耕一はこれを迷うことなくセンターへと打ち返した。

 江夏の強みはその観察眼だ。探り球で打者の狙いを観察し、その狙いを外した球をストライクの稼ぎ球として使う。しかしこの9回は『この展開では初球から打っては来ないだろう』というベテランのバイアスが「観る」工程を省いてしまっていたのかもしれない。

 無死一塁。近鉄はここで足のスペシャリスト藤瀬史郎を代走に送った。次打者のクリス・アーノルドは打力を期待されているため『バントはしてこない』と判断したカープは盗塁とヒットエンドランに備えた。そのアーノルドへの4球目、予想通り藤瀬はスタートをきった。

 後の報道等によればサインはヒットエンドランだったようだが、アーノルドが見落とし単独盗塁となった。江夏もクイックで投球、ヒットエンドランを想定した藤瀬のスタートは遅れ、アウトのタイミングだった。

 しかし、捕手・水沼の二塁送球がショートバウンド、ベースカバーに入った遊撃手・高橋慶彦がこれを逸らして藤瀬は一気に三塁へと進塁することとなった。

 無死三塁。カープは日本一を目前にしながらも同点のピンチを迎えたのだ。カープバッテリーが犠牲フライを警戒してアーノルドを四球で歩かせると、近鉄は代走として吹石徳一を起用した。

 驚くことにこのケースで、カープベンチは前進守備を指示した。これはカープが同点まではよしとする「負けない」ことよりも無失点で守り切り「勝つ」ことを選択したことを意味する。この後、近鉄もまた追いついて「負けない」ことよりも逆転して「勝つ」ことを優先させることになる。この目的設定が手段(戦術)の選択というゲームマネジメントを大きく変えることになる。

 無死一、二塁。平野光泰の2球目、江夏はインコース低めへカーブを投げた。江夏のカーブは膨らみが少なく、スライダーに近い軌道だ。この日は小雨の影響か、このカーブが見事にキレた。つられた平野のハーフスイングから江夏は『今日のカーブは使える』と判断したのかもしれない。

 これも江夏の強みだ。実戦の中で軸になる球を見極め、これを中心に配球をマネジメントしていく。まさに企業がコアコンピタンス(核となる能力)を中心に事業展開していくように、だ。

 平野の3球目、ホームインすればサヨナラの走者となる吹石はカープ内野陣が前進守備を敷いたことにより、楽々2盗を成功させた。この盗塁成功が近鉄の目的を「追いつく」ことから「勝つ」ことへと移行させることになった。

 無死二、三塁。当然のごとくカープベンチは満塁策を指示、バッテリーには「負けの覚悟」が求められた。無死満塁、絶体絶命のピンチである。ここで近鉄は満を持して代打・佐々木恭介(右打者)を送り込んだ。