あきらめない粘りの原型

 佐々木を三振に打ち取った後、一死満塁で石渡茂が打席に入る。石渡は初球のカーブを簡単に見逃した。これを見たカープバッテリーはスクイズが来ると確信したのだろう。逆に近鉄ベンチはここで「まずは1点を取る」と目的を「勝つ」から「負けない」に変更し直したと考えられる。

 この時点での江夏と石渡の力関係は江夏の方が上であるように感じる。であるならば、打つにしろ、スクイズにしろ、過敏なバッテリーをスクイズの構えで揺さぶり、カウントを整える必要があったのではないだろうか。弱者が強者に勝つためには心理や情報を利用した奇襲的な戦術が求められるのだ。

 2球目、カープバッテリーは再びカーブを選択した。三塁走者・藤瀬のスタート、石渡のバットの動き、「場」の空気の変化を江夏の感性が察知したであろう、誰にも予想できない投球を見せた。

 江夏は自身が神業というカーブでのウエスト(外した)ボールをとっさに投じ、捕手・水沼もそれに見事に反応した。

 ボールはバットの下をくぐり抜け、ミットに収まる……スクイズ失敗により三塁走者のタッチアウトに成功した。二死二・三塁。追い込まれた石渡はファールで粘るも、江夏の21球目、決め球のカーブで三振。カープは初の日本一に輝いた。

 

 日本シリーズ第7戦、9回裏、無死満塁を乗り越えた経験はカープに刻まれた、あきらめない粘りの原型といえる。一球を意味づけて勝敗を背負う「抑え」としての江夏の矜持は受け継がなければならない。

 今シーズンのカープはゲーム終盤の戦いに苦しんでいる。今のカープのリリーフに江夏のような投球術を求めるのは酷だろう。だが、江夏にはない「勢い」のあるボールを持つ投手はいる。塹江もその一人だ。

 さらにカープには優勝を経験した會澤翼を中心にベテランの石原慶幸、磯村嘉孝、坂倉将吾と多彩な捕手陣がいる。

 彼らとのバッテリーで打者に対する観察眼を養い、目的と情報のマネジメントによって持ち球を「使える」ボールに変えることができれば、カープが抱える終盤の課題は徐々に変革されていくのではないだろうか。

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高柿 健(たかがき けん)
広島県出身の高校野球研究者。城西大経営学部准教授(経営学博士)。星槎大教員免許科目「野球」講師。東京大医学部「鉄門」野球部戦略アドバイザー。中小企業診断士、キャリアコンサルタント。広島商高在籍時に甲子園優勝を経験(1988年)、3年時は主将。高校野球の指導者を20年務めた。広島県立総合技術高コーチでセンバツ大会出場(2011年)。三村敏之監督と「コーチ学」について研究した。広島商と広陵の100年にわたるライバル関係を比較論述した黒澤賞論文(日本経営管理協会)で「協会賞」を受賞(2013年)。雑誌「ベースボールクリニック」ベースボールマガジン社で『勝者のインテリジェンス-ジャイアントキリングを可能にする野球の論理学―』を連載中。