プロ野球の世界のみならず、アスリートにとって『背番号』は時に選手の代名詞となるなど、大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手たちの足跡を背番号と共に振り返る。今回は、背番号『11』を取り上げる。

カープ時代は中継ぎ、先発として活躍した紀藤真琴氏(写真は2025年撮影)

◆黒田不在の穴を埋めた最強助っ人外国人

 プロ野球界全体で見ても“好投手”のイメージが強い背番号『11』。他球団では永久欠番となっているところもあるが、カープの歴史を見ても印象に残る投手が多いのは確かだ。

 この番号で初めて10年以上プレーしたのは、1974年から1985年にかけての池谷公二郞だ。ドラフト1位入団で木原義隆から『11』を受け継ぎ、“シーソー投法”と呼ばれた左腕を高く上げる独特の投球フォームで名を馳せた。ルーキーイヤーから一軍登板を果たし、翌1975年には18勝でチームの初優勝に貢献。3年目の1976年には20勝で最多勝を獲得、沢村賞も受賞した。一方で1977年には被本塁打48を喫しており、これは日本プロ野球史上最高の数字となっている。

 1989年から2000年まで背負ったのは、紀藤真琴だ。1983年にドラフト3位で入団し、1987年に一軍初登板。1989年に『11』を背負うと1994年にはキャリアハイの16勝と勝率.762をマーク。この勝率はセ・リーグ1位でもあった。

 在籍期間は短くても、強い印象を残した投手もいる。背番号『11』の歴代選手たちの中では、“カープ史上最強助っ人”との呼び声も高いコルビー・ルイスが好例だろう。黒田博樹がメジャー移籍した2007年オフに加入し、2008年シーズンは開幕から先発ローテーション入り。チームトップの15勝、リーグ2位の防御率.268を記録したのみならず最多奪三振(183)を獲得、黒田不在の穴を埋めるに十分な活躍を見せた。2年目の2009年は助っ人投手として球団史上2人目となる開幕投手を務め、2年連続で最多奪三振(186)のタイトルも獲得。「黒田投手と比べられるのはとても光栄。みなさんに黒田投手と同じくらい、または、それ以上の投球をしていると言っていただけるのであれば、これ以上ない光栄なことだと思います」と話すなど人格的にも優れ、ファンの間では今も記憶に残る存在だ。

 前述の紀藤とルイスの間、2005年から2007年シーズンに『11』をつけていたのが小山田保裕だ。背番号『39』時代の2002年には球団史上初の30セーブを挙げ、44試合で防御率2.72の成績を残す大活躍を見せた。2004年に抑えから先発に転向し、翌2005年に『11』をつけると、5月までの2カ月間で2完封を含む5勝を挙げ、7勝を挙げていた黒田博樹と共に2枚看板として期待された。2000年代はこの小山田、ルイスをはじめとして10年間で4人が入れ替わったが、2010年ドラフト1位入団の福井優也で再び安定期を迎える。

 その後2年間の空白を経て、昨シーズン後から背番号『11』の歴史に名を連ねたのが、2013年ドラフト2位の九里亜蓮だ。ルーキーイヤーから、同1位の大瀬良大地と共に開幕から先発ローテーション入り。先発もロングリリーフもこなせる万能型で、2020年はシーズンを通して先発ローテーションを守り抜き、自身初の規定投球回を達成。防御率2.96と安定感のある投球を見せた。タフネス右腕としてフル回転の活躍を見せた九里は、2024年シーズンオフにFA権を行使。西川龍馬も所属するオリックスへ移籍した。2025年シーズン現在、背番号『11』は空き番号となっている。

【背番号『11』を背負った主なカープ選手】
池谷公二郎(投手/1974年-1985年)
紀藤真琴(投手/1989年-2000年)
小山田保裕(投手/2005年-2007年)
ルイス(投手/2008年-2009年)
ヒューバー(内野手/2010年)
福井優也(投手/2011年-2018年)
九里亜蓮(投手/2021年-2024年)
※初めて背番号を付けたシーズンのポジションを表記。