カープのエースとして低迷期を支え、2008年に球団初のメジャー移籍を果たした黒田博樹。ドジャース、ヤンキースで79勝をあげると、広島復帰2年目の2016年に日米通算200勝の偉業を達成した。

 日本を代表する名投手として野球殿堂入りも果たした黒田だが、彼をスカウトした備前喜夫氏が抱いていた印象は、意外にも『大人しい子』というものだった。ここでは、広島アスリートマガジン創刊当時の人気連載『コイが生まれた日』から、黒田博樹の入団秘話をお届けする。(広島アスリートマガジン2003年3月号『コイが生まれた日』を再編集)

プロ20年の野球人生で、通算203勝をあげた黒田博樹

◆“おとなしかった”大学時代は、投げ急ぎで四球連発

 最初に彼の情報がウチの球団に入ったのは、専修大2年の秋だったように記憶しています。苑田(聡彦・現スカウト統括部長)から『すごく速い球を投げる投手』がいると聞いたので、神宮球場までリーグ戦を見に行ったんです。確かに球は速くて、フォームも申し分なかったのですが、当時の黒田は肝心なところで四球を連発して崩れるという悪い癖があったんです。実際私が初めて見た試合も制球が定まらず苦労していたことを覚えています。

 当時のドラフトではコントロールも変化球も良くてクレバーな投球術を持っている澤﨑(俊和・1996年ドラフト1位)は即戦力でいけると思っていましたが、黒田の場合は「まあ2、3年後には……」というのが正直なところでした。

 直接彼に入団の話をしたのは、4年の春だったと思います。非常におとなしい子だな、というのが彼の第一印象ですね。話す声も小さかったし、あまりこちらと視線を合わせなかったり……。今ではテレビやラジオのインタビューでもハキハキと答えていますが、あの頃から考えたら信じられない話ではありますね。

 しかし黒田の場合お父さんも元プロ野球選手でしたし(黒田一博・元南海など)、昨年亡くなられたお母さんも体育の先生だったんです。スポーツ選手としての肉体面の素質はもちろん良いものをもっていましたが、アスリートとして大切な精神的なものもしっかりとご両親から教えられているという感じは確かにありました。

 プロ野球選手として過ごす年数が増えてきて佐々岡(真司)に代わってエースだ、開幕投手だとか言われるようになってきましたし、ラジオでも取材でも堂々と受け答えするようになりましたけど、私の中で「おっ、だいぶ堂々としてきたな」と思ったのは、一軍に定着し始めた3年目くらいでしょうか。

 ちょうどそのあたりからフォークボールを覚えて、自慢の直球も生きてくるようになりましたね。大学時代に見せていた四球を出す癖は、投げ急ぎからくるものだったみたいですね。フォームに「ため」をつくる、つまりいったん止めるようにすることで安定感が増してきたんだと思います。

【備前喜夫】
1933年10月9日生〜2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。