◆心残りは、三村監督を胴上げできなかったこと
当時、チームは毎年優勝争いを演じるなど決して弱くなかった時代ですが、最大のチャンスであった96年は後半戦、巨人に大逆転されてしまいました。私はプロ入りして以来、それまで古葉監督、阿南監督、山本監督を胴上げしていただけに、選手時代から大変お世話になっていた三村監督を胴上げできなかったことは今でも心残りです。
三村監督としては1998年が最後のシーズンになりましたが、同時に私も現役最終年となりました。この年、私は開幕投手を務めたのですが、告げられたのは前年のオフでした。当時私は42歳になっていましたし、1年投げきれるか分からない状況でした。なので「僕を開幕投手にするようならカープは優勝できません。もっと若くて勢いのある投手を開幕投手にするべきです」と伝えて断りました。
ですが、それでも三村監督は「お前が投げて勝てば勢いがつくし、仮に負けてもお前が投げて負ければ周囲は納得するんだ」と説得されました。三村さんとは意見を言い合える、そんな仲でもありました。今振り返れば、未だにリーグ最年長開幕投手という記録が残りましたし、ありがたいことですよね(笑)。
そのシーズン、私は6月に持病の血行障害を再発したことで引退を決意し、球団にその意思を伝えました。当然、三村監督の耳にもその情報は入っていたでしょう。球団から慰留され、もう一度復活を目指しましたが、8月の巨人戦で高橋由伸に本塁打を打たれ、私は引退を決意しました。
試合後、三村監督に直接引退の意思を伝えましたが、それでも三村監督は「まだ投げられるじゃないか」と励ましてくれました。その後、二軍落ちとなりましたが、三村監督の意向でチームに帯同することになりました。
引退することが正式に決まり、私は9月に旧広島市民球場で引退試合を行っていただきました。最後のマウンドでは三村監督から「一人だから、頑張って投げてくれ」という言葉をかけていただきました。その時にさまざまな思いが巡りましたが、三村さんが監督として最後のシーズンであったこと、私と佐々岡を配置転換してくれたこと、私に対して思いやりを持って接していただいたことなどを思うと、三村さんを胴上げできなかったことを本当に申し訳なく感じましたし、悔やまれることでした。
私は現役時代、古葉監督に始まり、いろいろな監督の下でプレーをさせていただきました。そんな中でも三村監督はカープ野球を継承されていましたし、当時『トータルベースボール』と三村さんが提唱していた通り、チームの総合力を巧みに扱いながら、さまざまな戦略で戦っていく策士な監督だったと思います。
■三村敏之(みむら・としゆき)
1948年9月19日〜2009年11月3日(61歳没)、広島県出身
1994年に一軍監督に就任。ビッグレッドマシンと呼ばれた強力打線を形成し、在籍5年でチームを4度Aクラスに導いた。