昭和25年。原爆投下により焼け野原となった広島の地で、絶望感に打ちひしがれていた広島市民の夢や希望を背負って発足したのが『カープ』だった。初の“市民球団“であるカープと広島市民との間には、いまなお強い絆が存在する。
ここでは、カープ誕生時から選手として在籍し、“小さな大投手”長谷川良平氏とバッテリーを組んだことでも知られる長谷部稔氏のインタビューを再録。改めて、カープ球団の成り立ちとファンとの関係を振り返る。(『広島アスリートマガジン』2010年1月号掲載記事を再編集)
◆広島の人々の夢や希望を背負った球団
広島にプロ野球球団ができるという話が出たのが、昭和24年(1949年)のことです。原爆が投下され、焼け野原となったところにプロ野球という楽しみができるということですから、当時の広島県民にとってはカープが生きる夢や希望でしたね。
カープの結成披露式が行われたのは、翌年1月15日のことでした。
選手は元プロ野球選手を寄せ集めて25人程度で、当時連盟がプロ野球球団として認めていた50名にはほど遠かったため、翌16日から広島総合球場(現コカ・コーラウエスト野球場)で新人入団テストが行われました。100名以上の入団希望者が集まり、当時、広島皆実高校野球部に所属していた私も参加者の一人でした。
それから3日後に、私を含めて5人が石本(秀一・初代)監督に呼ばれましてね。給料の話は一切無く、少し野球の話をされた後にいきなり「(契約書に)判を押せ」と言われたのです。カープにお金がないのは広島では周知の事実でしたし、一度帰したらもう戻ってこないと分かっていたのでしょう。
私たちのようなお金のかからない選手で頭数をそろえ、やっとのことでスタートしたカープだったのですが、開幕前から資金集めで大忙し。市町村が資金をねん出するという話になっており、議会を通さなければならないというので、なかなかお金が回ってこなかったのです。そのため、入場料を頂けて、ご飯も食べさせてもらえ、カープの宣伝にもなるというので頻繁に紅白戦をして回りました。
モノもお金もない貧しい時代でしたが、「カープが来る」というだけで地方の方々は歓迎してくださいましてね。もちろんプロ野球を見られるといううれしさもあったと思いますが、カープを何とかしてあげたいという気持ちが強かったことと思います。
(第2回に続く)
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