1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。

 1988年のベストナイン、沢村賞投手であり、2度の最優秀防御率、3度の最優秀救援投手に輝いた大野豊氏。42歳7カ月で務めた開幕投手は、史上最年長開幕投手として今なお破られていない記録だ。野球殿堂入りも果たした大野氏が、自身の幼少期、野球との出会いを振り返る。(『広島アスリートマガジン』2004年11月号掲載記事を再編集)(全10回/第1回)

現在は野球解説者として活躍。写真は2022年春季キャンプで黒原拓未と言葉を交わす大野氏

◆陸上競技での挫折が、激動の野球人生をスタートさせた

 物心ついた時には、父親はいなかった。島根県出雲市で母一人子一人で育った私は、山や海という自然の遊び場で毎日走り回っていた。

 中でも特に熱中したのが野球である。ただ本格的な野球ではなく、柔らかいゴムボールを拾った竹や木の枝で打つというものだった。だからグローブは使わず素手でボールを捕っていた。

 しかしやがて軟式野球のボールを使うようになり、子供達も一人、二人とグローブを持つようになった。私も子供心にグローブが欲しくなったが、家庭環境を考えると、最初は言い出せなかった。しかしもっと楽しい野球がしたいと、思い切って母に頼んだら、黒いグローブを買ってくれた。小学校3年生の頃だった。うれしくてうれしくて、毎晩枕元に置いて眠り、暇があればきれいに磨いていた。そのグローブで一層野球に熱中したのだが、「将来はプロ野球選手になりたい」と夢見たわけではなかった。

 当時私の将来の夢は、学校の先生またはパイロット。成長するにつれていろいろ変わってきたが、21歳になるまで『プロ野球選手になりたい』と思った事はなかった。

 投げる事や打つ事以上に、とにかく走る事が好きだった。短距離、長距離ともに自信があったから、小学校6年生では陸上競技に力を入れていた。だから出雲市立第一中学校に入学すると、迷う事なく陸上競技部に入部した。

 しかし私は1学期にして早くも挫折してしまった。夏休み前に行われた市の大会に1500メートルで出場したが、11位に終わってしまったのだ。市の中で自分より速い人間が10人いると知って「この先いくら練習しても芽は出ない」と、途端にやる気を失った。

 夏休みに入ると、私は練習に出なくなった。陸上部の顧問であり、私のクラスの担任でもある安井先生に「どうして練習に出ないんだ」と聞かれ、私は「もう陸上競技をやる気がなくなりました」と答えた。先生には「それなら代わりに何か他のクラブに入るように」と勧められた。そこで陸上部と同じグラウンドで練習していて、どこか楽しそうに見えていた野球部に、2学期から転部した。

 野球部に入ると、その秋の新人戦から、レギュラーポジションをもらった。ライトを守って、打順は七番か八番。足が速くて肩も多少強いということで選ばれたようだ。ただ、身長はまだ160センチに届かず、ライト方向へ引っ張る当たりはなかなか打てず、センターからレフト方向へ流すというより当てるだけの感じだった。

 2年生でピッチャーに転向したが、試合では3年生のエースがほとんど投げていた。最上級生になった時には下級生に良いピッチャーがいて、私は試合ではほとんど外野を守っていた。だから中学時代は決して目立った選手ではなかった。

 中学を卒業したらすぐに就職しようと、大工や左官屋など手に職が付く仕事に進もうとした。しかし母や親戚から「生活の事は心配しなくていいから、きちんと高校には行きなさい」と猛反対された。そこで卒業後就職に有利で、かつ野球ができる出雲商業高校に進学し、入学と同時に野球部に入部したのだ。

(第2回へ続く)

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