1975年の初優勝以来、カープ黄金期を築いたレジェンドOBたち。往年の名選手がカープへの熱い思いを語った『広島アスリートマガジン』連載記事を再掲載する。
出雲市信用組合から異例の入団テストを経てカープ入りを果たした大野豊氏。しかしプロでの道のりは順風満帆とはいかなかった。デビュー戦では、わずか1死のみで降板となり、プロ1年目の防御率は135.00。大野氏が、苦い経験から得たものとは。
(『広島アスリートマガジン』2005年1月号掲載記事を再編集)(全10回/第5回)
◆わずか30球でノックアウト。元安川の土手を歩いて帰って苦いデビュー戦
1977年3月6日、私は広島市民球場内での入団発表に臨み、背番号『60』をもらってプロ野球選手としての第一歩を踏み出した。翌日の新聞では片隅に載った程度の目立たないもので、ドラフトで指名された山崎隆造などの同期入団組より約2ヵ月以上遅れてのプロ入りとなった。
しかし私も5月からウエスタン・リーグの試合に登板し、8月初めには初完投で3勝目を挙げた。そして8月4日、前年入団の小林誠二と共に一軍に昇格したが、それから約1ヵ月間出番がなかった。
その頃地元紙の夕刊で『軟式野球からテスト入団した左腕、自慢の速球で一軍入り』と私の事が取り上げられ、「大野というピッチャーが観たい」との声が、一部のカープファンから聞かれ始めていたという。
そして一軍入りからちょうど1ヵ月が過ぎた、9月4日の地元での阪神戦。
カープは7回までに2ー12と大量リードを許し、スタンドのあちこちから「大野を出せぇ」のヤジが飛び始めていた。偶然にもその日はいつ投げるかわからない私のために、郷里の出雲市から結成されたばかりの後援会がバス2台で応援に来ていたのだ。

