エース左腕としてカープの黄金期を支えた大野豊氏。高校卒業後、一度は出雲信用組合に就職して営業マンとして働き始めた大野氏だが、「プロ野球選手になりたい」という思いは日に日に増していく。ついに特例での入団テストを受験することになり、見事合格。後に数々の記録を打ち立てた大投手が、プロへの第一歩を踏み出した日を振り返る。

(『広島アスリートマガジン』2004年12月号掲載記事を再編集)

異例のテストを経てカープ入団を果たした大野氏。のちに、数々の記録を打ち立てる名投手となる

◆特例だった、二軍キャンプでの入団テスト

 物心ついた時には、父親はいなかった。島根県出雲市で母一人子一人で育った私は、山や海という自然の遊び場で毎日走り回っていた。中でも特に熱中したのが野球である。ただ本格的な野球ではなく、柔らかいゴムボールを拾った竹や木の枝で打つというものだった。だからグローブは使わず素手でボールを捕っていた。

 幼い頃は『プロ野球選手になりたい』と思ったことはなかった。高校時代の野球部では、球拾い兼バッティングピッチャー。卒業後は地元の出雲市信用組合に就職し、軟式野球のチームに入部した。本格的にプロを目指すようになったのは、21歳の時である。

 私が巨人でも阪神でもなくカープを希望したのは、プロになると最初のうちは母と離れて暮らすことになるので、行き来できるように実家から最も近いチームが一番良いと思ったからだ。

 さらに、出雲市信用組合時代に野球教室でお会いした山本一義コーチは、高校時代にお世話になった監督・谷本(武則)さんの法大時代の後輩だという。同コーチの紹介で私は2月から呉市の二軍キャンプでテストを受ける事になった。

 私は会社の野球部の監督でもある常務に退職届を出して、入団テストを受けることを打ち明けた。常務は「そこまで本気なら行って来なさい。しかしこれは受け取れない。テストの事は私の胸に収めて置くから、親戚の結婚式とか旅行とか何でも理由をつけて休暇届を出しなさい。落ちた時は会社に戻って何喰わぬ顔をして仕事を続ければいい。こんなもの(辞表)は後で破って捨ててしまえば問題ない」と辞表を預かってくれた。改めてその心遣いに大変感謝している。

 ただ、私を21年間女手一つで育ててくれた母には、入団テストの事を出発前夜になっても打ち明けられなかった。結局当日の朝、「テストを受けに行く」とだけ言って、実家を出発したのである。出雲市駅には、野球部で先輩エースの金山(幸生)さんが見送りに来てくれた。