◆『中西太2世』と称された高校時代

 福岡県の最南端に位置し、有明海にも面した大牟田市は、三井三池炭鉱の石炭資源を背景に活況を呈していた。苑田が高校生になった1959年は20万人を超える最大人口を誇り、まさに炭鉱の町として栄えていた。

「そりゃ、炭鉱に勤めている家の子どもの弁当はすごかったですよ。麦メシではなく白米、それに卵焼きです。私は麦メシだったし、父の給料日に食べられるバナナが楽しみという生活でした」

 苑田が青春時代を過ごしたのは、福岡県立三池工業高校である。名物監督の原貢が野球部を全国区に躍進させた強豪校である。実は、監督就任間もない原がチーム強化のためにスカウトしてきた目玉選手が苑田であった。とにかく原の指導は強烈だった。

「まだ監督も若かったので、ただただ一生懸命な指導でした。投げる、打つ、スライディングに至るまで、監督が全て手本を示してくれました。とにかく厳しかったです。怒られましたし、鉄拳制裁も辞さない。でも、怒っても後を引かないタイプでした。バントはせず盗塁を多用する試合運びも印象に残っています」

 猛練習で鍛えられた苑田は、メキメキ頭角を現し、当時プロ野球界屈指のスラッガーであった『中西太2世』とも称されるようになった。大牟田にある球場でバックスクリーンのセンターポールの向こうに本塁打を打ち込むなど、強肩と長打力で全国区の存在となった。これには、西鉄のスター選手である中西から「俺より大きいホームランを打ったらしいな」と後日声をかけられたという逸話も残している。苑田は恥ずかしそうに、その称号を振り返る。

「たしかに、『中西太2世』と言われましたね。でも今、私はスカウトとして『○○2世』という表現を使いません。これは、自分が『中西2世』と呼ばれて、そうはならなかったからです。自分は素材だけでした。だから、マスコミからの取材でも、選手を『○○2世』と表現しないようにしています。スカウトの後輩にもその言葉は使ってはダメだと言っています」

 当時の三池工高は『就職率100%』活況ど真ん中に位置する工業高校だったが、それでも苑田は、プロ野球選手になりたかった。苑田の父は九州電力に勤める会社員として安定こそしていたが、苑田家はなんといっても6人兄弟。「お金が必要で、親孝行がしたい」というのが本音であった。彼は、監督の原に尋ねてみた。

「西鉄ライオンズの入団テストはありませんか?」