長年チームの屋台骨を支えてきた石原慶幸が、惜しまれつつカープのユニホームに別れを告げる。ここでは11月7日の阪神戦で予定されている引退セレモニーに先駆けて、広島アスリートマガジン上で語った本人の言葉と共に、激動のプロ19年間を振り返る。

プロ2年目から一軍での出場機会を増やした石原選手だが、倉選手との正捕手争いなど全てが順調なわけではなかった。

◆重責を負いプレーした苦しい若鯉時代

 即戦力候補として2001年ドラフト4巡目でカープから指名された石原慶幸だが、プロ1年目の2002年は西山秀二、木村一喜の壁に阻まれ、一軍での出場機会はわずか5試合にとどまった。2年目に116試合と飛躍的に出場試合数を伸ばしたが、周囲の評価とは裏腹に本人の中で手応えを感じるようなことはなかったという。

「まだ正直、プレーするだけで精一杯なところがあります。毎日毎日が必死だし、理想を口にする前に地道にやっていくしかありません。目標はその日その日をとにかく一生懸命プレーすることです。好きな言葉も一生懸命ですし、ファンの方には全力でプレーしている姿を見て頂ければと思います」(広島アスリートマガジン2003年10月号)

 プロ3年目の2004年は初の開幕スタメン、自身初の規定打席に到達したが、チーム防御率はリーグ最下位の4.75を記録。2005年シーズンを迎えるにあたっても個人的な目標は横に置き、あくまでもチームの勝利を優先する姿勢を見せ、「捕ることや打つことよりも、勝つことこそが捕手の仕事」と、春季キャンプの段階から自らの体をいじめ抜いた。

 「新聞やマスコミの方々に『どうしてインコースを使わないのか』と言われても、結果的に相手に打たれているわけですから、何を言われても僕としては言い返すことができませんでした。とにかく結果を出していかなければいけない事だと思うので、やっぱり悔しかったですね。決して死球を出すまいとしてインコースが使えなかったわけではありません」(広島アスリートマガジン2005年3月号)

 若手ながら“扇の要”としての責任感を人一倍感じていた石原。ところが2005年のオープン戦で左手有鈎骨を骨折し出遅れると、打撃不振も響き夏場以降は倉義和(現一軍バッテリーコーチ)に先発マスクを譲る場面が増え始めた。

「(捕手の併用に関して)そこは監督の考えですから、特にどうこう言うことはありません。僕としては出番が来ればそこで結果を出す。そうすればまた使ってもらえる。試合に勝って打つ方もしっかりアピールできれば、という気持ちでやっています」(広島アスリートマガジン2006年12月号)

 打撃、守備の両面でレベルアップを図った石原だったが、倉との併用体制はブラウン監督体制に移り変わった2006年も続き、正捕手争いは過熱の一途を辿っていった。

(vol.2に続く)