カープは現在、9名のスカウトが逸材を発掘するために全国を奔走している。そのスカウト陣をまとめているのが、苑田聡彦スカウト統括部長だ。苑田スカウトはかつて勝負強い打撃でカープで選手として活躍し、初優勝にも貢献。引退直後の1978年から現在までスカウトとして長年活動を続け、黒田博樹を筆頭に数々の逸材獲得に尽力してきた。

 この連載では、書籍『惚れる力 カープ一筋50年。苑田スカウトの仕事術』(著者・坂上俊次)を再編集し、苑田聡彦氏のスカウトとしての眼力、哲学に迫っていく。

「信頼を得るために、まずは信頼せよ」。今回は1988年ドラフトで、江藤智(5位視名)獲得までの裏側にあった、苑田スカウトのスカウト人生を賭けた決断を紹介する。

1988年ドラフト5位で入団した江藤智選手。猛練習でサードのレギュラーを獲得し、1993年(34本塁打)と1995年(39本塁打)の2度にわたり本塁打王に輝いた。

◆信じる力=信じてもらう力

 スカウトになって40年近くになるが、未だ『自信が持てた』『やり遂げた』などという感覚はない。これまで見てきた風景は全て、山の頂の風景ではないのである。スカウトの仕事は常に続いていく。次なる『可能性』を探し求める緊張感や使命感は、いくら経験を積んでも、現在進行形なのである。

 スカウトとして唯一ほっとできる時間は、ドラフト指名した選手と契約を済ませた後だけである。

 「契約したら、まず(松田)オーナーに電話をします。それから、契約したチームの監督など関係者にも電話です。それから、最後に女房に電話です」

 ドラフト指名選手と契約し、妻への電話が終わると一段落する。ホテルの部屋で缶ビールを開ける。これが至福の瞬間である。

 「ドラフトの順位に関係なく嬉しいものです。このときに飲むビールは美味しいですね」

 そして夜が明ければ、次なる使命が待っている。だからこそ、この一杯がたまらないのかもしれない。選手の数だけドラマがある。出会いの数だけ喜びがある。縁はなかったものの、エールを送りたい選手もいる。その全てが、苑田にとっての財産なのである。

 どの選手へも思いは等しく注がれる。しかし、『あの仕事』をやり遂げたときのビールの味は格別だった。

 関東高(現・聖徳学園高)のスラッガー・江藤智との出会いである。社会人野球の試合を府中球場で見た帰り道、関東高のグラウンドに頻繁に通っていた。苑田は、そのグラウンドと大砲・江藤を鮮明に覚えている。

 「あそこのグラウンドは、レフトの向こうが道路でライト方向は狭くてすぐネットを越えてしまいます。だから、江藤はセンターに打つしかなかったのだと思います。柔らかいバッティングでセンター方向に自然と打っていました」

 レフトやライトでは球がグラウンドから出てしまう。だから、センターに打つしかない。そう思わせる江藤の打撃もすごいが、苑田の推察もまた興味深い。

 高校2年生のときはファーストを守り、3年生になると、彼は本来の守備位置である捕手に戻っていた。しかし、江藤は右肩を痛めていた。練習で投げる姿は、問題はなく見えた。しかし、いざ試合のプレーのなかで送球すると肩が痛いようだった。打撃センスは折り紙つきだが、この右肩の状態をどう判断するか。苑田の眼力が問われた。

 江藤が野球部に退部届を提出すると、苑田は病院にいくよう勧めた。検査結果に異常はなかった。「特に悪くはない。筋肉が少し細くなっているところはあるが、トレーニングで元通りになる」というのが医師の見立てだった。そこから1週間もしないうちに、江藤はボールを投げられるようになった。

 苑田は江藤に声をかけた。

 「(カープで野球を)一緒にやろうや」

 江藤は、ニッコリ笑っていた。

 しかし、それだけですんなり話は進まない。関東高の校長が、ドラフトで指名するという『口約束』を信用していなかった。それは高校生の将来を真剣に考えてのことである。右肩に痛みを訴えていた経緯もあるだけに、校長の態度にも頷ける。 

 「かつて、同じようにプロに指名すると言われながら、指名されなかったことがあったようです。その選手は進学も就職も決めていなくて、(本人も学校も)大変困ったと聞きました。そりゃ、校長も我々を信用できないだろうと思いました」

 ただ、それで諦める苑田ではない。なんと、念書を用意したのである。「この度のドラフト会議で、関東高の江藤智選手を指名します」そう書いて、署名、印鑑も押した。そこまでして、信用を勝ち得たのである。念書を受け取った校長は、それを金庫に入れて保管したという。

 ドラフト会議で江藤を指名した後、苑田と校長は抱き合って喜んだ。校長は金庫から念書を取り出し、苑田に返却した。

 信じてもらうためには、こちらが信じることが必要。信じる姿勢を強く見せてこそ、信じてもらえるのである。『信じる力=信じてもらう力』。そんなことを、江藤を指名したドラフトから学んだ。これが、今の苑田のベースになっていることは間違いない。

●苑田聡彦 そのだ・としひこ
1945年2月23日生、福岡県出身。三池工高-広島(1964-1977)。三池工高時代には「中西太2世」の異名を持つ九州一の強打者として活躍し、64年にカープに入団。入団当初は外野手としてプレーしていたが、69年に内野手へのコンバートを経験。パンチ力ある打撃と堅実な守備を武器に75年の初優勝にも貢献。77年に現役引退すると、翌78年から東京在中のスカウトとして、球団史に名を残す数々の名選手を発掘してきた。現在もスカウト統括部長として、未来の赤ヘル戦士の発掘のため奔走している。