2020年は堂林翔太がついて“覚醒”のシーズンになったと言っても過言ではない。開幕序盤から安打を量産し、8年ぶりに規定打席に到達するなど、最後までレギュラーとして活躍。期待されながらも結果を残すことができなかった男が、プロ11年目で見事な復活劇を見せつけた。

 11年目の覚醒を見せファンを魅了した、堂林翔太のこれまでの軌跡を、当時の本人の言葉とともに辿る。今回は一軍昇格を目指していたプロ1年目、2年目に焦点を当てて振り返っていく。

2009年ドラフト2位で入団した堂林翔太選手。プロ1、2年目は二軍で野手としての経験を積んだ。

◆どれだけ三振を重ねても、中途半端なスイングは決してしない

 中京大中京高から、2009年ドラフト2位でカープに入団した堂林翔太。高校3年で出場した夏の甲子園では、エース兼4番として全国制覇に貢献。甘いマスクも相まって甲子園を沸かせた球児は、“スラッガー”としての期待を背負い、野手としてプロ生活をスタートした。

 入団1年目。ウエスタン・リーグでの初スタメンで猛打賞を記録した堂林は、4月4日の阪神戦で一軍経験もある福原忍からプロ入り第1号。続く2戦目でも2号本塁打を放ち、いきなり大物の片鱗をみせた。

「1年目は全然通用しないと思っていたのですが、初めて打席に立ったときは、正直『こんなもんか』と思ったんです。だから何度か打席に立てば慣れてくるだろうなと」

 しかし、好調は長くは続かなかった。シーズン序盤は快調に飛ばすも、相手球団のマークが厳しくなると、結果の出ない日々が続くことになった。

「10何打席無安打というのもありましたし、これだけ打てないのは初めてでした。振っても当たらないし見逃したらストライクだし、当たったと思ったらファウルになるし。どうしていいのか全く分からず、どうしようもできなかった時期もありました」

 

 首脳陣の期待もあり、たとえ結果が残せなくても、常時スタメンで起用され続けた。当然プレッシャーとの戦いもあったが、堂林の心は折れることはなかった。いくつ三振を重ねても積極性を失わずに、自分のスイングを貫き通した。

「『昨日打てなければ今日打てればいい。今日打てなければ明日打てばいい』と、いつも監督さんが毎試合リセットするようにと言ってくれているので、気持ちを切り替えて試合に臨むようにしています。また、打席の中で消極的にならないように意識しています。振ってみなければ分からないし、バットが出てこなかったら終わり。高校からずっとそうやって教えられてきたので、それだけはやるようにしていました。高校のときは見逃しが許されなかったので、それが今の打撃スタイルにつながっていると思います」

 どれだけ三振を重ねても積極性を失わず、中途半端なフルスイングは決してしなかった。その結果、リーグダントツの三振数を喫したが、1年目から7本塁打を記録。7月に開催されたフレッシュオールスターでは豪快な本塁打を放った。野手1本で挑んだプロ1年目。重圧にも動じず、1歩1歩信じた道を突き進んだことで、スラッガーとして潜在能力の高さを感じさせるシーズンとなった。

 

◆「壁を乗り越えたら次の壁にぶつかる。その繰り返しです」

 そして迎えたプロ2年目の2011年。『20歳までに一軍に昇格すること』を目標にシーズンに突入した。

 ただ、思うように物事が進まないのが弱肉強食のプロの世界。春季キャンプでは、さらなる進化のために打撃フォームの矯正を行なったが、「試合の中でも『これだ』というのが出てこない」と完成の域にはほど遠い日々を送った。前年に続き、選出されたフレッシュオールスターでは、2つの三振を含む3打数ノーヒットと結果を残すことはできなかった。

 

 打撃向上のきっかけをつかむために懸命にもがくも、結果はついてこず、ルーキーイヤーを大きく下回る、打率.208、1本塁打、23打点の成績でシーズンを終えることになった。

「出口なんて野球を辞めるまで見えないですよ。壁を乗り越えたら次の壁にぶつかる。その繰り返しです」

 入り込んだ長いトンネル。その暗闇を脱出するためには練習しかなかった。もがく堂林に一筋の光が差し込んだのはシーズン終了後に行われたフェニックス・リーグ。ここで、打率.383、10打点の堂々たる成績を残し、「チャンスの場面では打点を意識していた」と2度サヨナラ打を放つなど勝負強さも披露した。

 “左足の上げ方”を入団当初の形に戻したことで、持ち味である右中間方向への打球が面白いように伸びていった。課題の2ストライクからの打撃も「三振も減ったし、ヒットも出ていますからね」と胸を張るほどに成長。苦しみ抜いたシーズンから一転、フェニックス・リーグでは、イメージ通りのバッティングを披露し、結果を示してみせた。

 フェニックス・リーグ以降、首脳陣も、堂林にこれまで以上に熱い視線を送るようになり、プロ3年目でようやくチャンスが巡ってくる。目標にしていた20歳までの一軍昇格は実現できなかったが、2012年、堂林が大ブレイクを果たすことになる。(#2に続く)