これまでカープを指揮してきた歴代監督たち。その手腕と采配の裏には、揺るぎない信念とチームへの深い愛情があった。ここでは、OBが語る往年の監督にまつわるエピソードを改めて紹介する。
エースとして黄金期のカープを支え、最優秀防御率2回、最優秀救援投手1回、沢村栄治賞にも輝き、2013年には野球殿堂入りも果たした大野豊氏。その大野氏が「心残り」と語るのが、1994年から一軍で采配を振るった三村敏之監督を胴上げできなかったことだ。
現役時代は“いぶし銀”と呼ばれ、監督時代は『トータルベースボール』を提唱。古葉野球で培った伝統のカープ野球を継承した名指揮官の姿を、大野氏の言葉で振り返る。
◆物静かで温厚。良き兄貴分でもあった『いぶし銀』の内野手
三村さんは1983年の引退直後からコーチとしてチームを支えられていましたが、1994年に一軍監督に就任されました。そして就任直後、三村さんは当時ストッパーを務めていた私と当時先発だった佐々岡真司を呼び、『大野と佐々岡の役割を逆にしてくれないか』と提案されました。
ですが、私は山本浩二監督時代、先発としての限界を感じてストッパーに回ったという経緯がありましたし、佐々岡も先発として投げることを志願していたこともあって、その構想はお断りし、納得していただきました。
しかしながら、翌1995年にも三村さんは私と佐々岡の役割を逆にする構想を再度提案されてきました。そこまで言われるなら、という事でオールスター前に私は先発に回ることになりました。ブルペンで先発としての調整を行う度に毎回私の様子を必ず見に来てくれたのは、今でも印象に残っています。
私を先発に戻すという判断は、当時周囲からの反対も当然あったと思います。その意見を押し切るという決断は難しい面があったと思いますが、最終的に三村さんは自分の信念を突き通されました。
結果的に1997年には球界最年長で最優秀防御率のタイトルを獲ることができましたし、先発として中6日で調整することで、選手寿命も伸びました。

