カープ黄金期のいぶし銀・木下富雄と、記憶に残るプレーでファンを魅了した天谷宗一郎。親子ほどの年齢差のある二人だが、2000年代に“二軍監督”と“選手”として伝統の猛練習を通じて並々ならぬ関係を築き上げた。 若手時代の思い出から、今だからこそ話せる裏話まで意外な“師弟コンビ”が全3回にわたり、カープへの思いを語り尽くす。
第1回は天谷氏のルーキー時代の思い出を回顧。後のカープの主力となる若手選手が在籍していた当時のファームにおいて、木下氏の目には天谷氏がどのように映っていたのだろうか?
◆“育成のカープ”を体現する間柄
─まずはお二人の関係性からお教えていただいてもよろしいでしょうか?
【木下】僕は2000年にカープのチーフコーチをやらせてもらって、2001年から二軍監督になりました。その二軍監督時代に天谷がカープに入団したんです。第1印象は『まあ〜、こりゃ鍛えがいのある選手が入ってきたな』と(笑)。天谷は俺のこと初めて見たときどうだった?『なんだ、このおじいちゃん』と思っただろ?
【天谷】そんなことないですよ(笑)。僕の中で木下さんはグラウンドに姿を見せるだけで空気がピリっとなる、そんな存在でした。自分が現役を辞めてから気さくに話していただけるようになって『こんな優しい方だったんだ』と思うようになりました(苦笑)。
【木下】初めて二軍監督になって思ったのが、二軍といえども、プロとしてしっかりとした雰囲気で練習をしてもらいたかったということなんだよね。だから多少意識して厳しくしていたところはあったかもね。
また今だから話せるけど当時は天谷もそうなんだけど、栗原(健太・現中日一軍打撃コーチ)と末永(真史・現カープスカウト)をなんとしても育てなきゃいけないという思いがあったんだよね。
─当時の天谷さんの印象はいかがでしたか?
【木下】練習や試合での様子を見る中で『この子はひょっとしたらひょっとするかもな』という思いが徐々に強くなっていきましたね。二軍の中でも天谷は練習についていくだけの体力を持っていたんです。
【天谷】木下さんには本当に鍛えてもらいました(苦笑)。若い頃は本当に休みがなかったですね。由宇で試合にずっと出させてもらっているのに、大野に帰ってからさらに1時間ぐらい特打をさせてもらっていましたからね。ない頭なりに、『これだけ練習をさせてくれているというのはきっと期待してくれているからだ』というのは感じましたし、ありがたかったですね。本当に首根っこを捕まえられる勢いでやっていました(笑)。
【木下】やっぱり二軍の基本は、育成ですからね。私たちには育てなければいけない使命があるんです。オーナーから『木下頼むぞ。極論二軍は全部負けても良いから、年間一人でも一軍で活躍できる選手を上げてくれ』とそう言われたこともありましたからね。
でも、僕が二軍監督になって3年目のシーズンは少し違いました。あの頃は二軍が前期と後期に分かれていたのですが、前期残り10試合となった時に首位に立つことができたんです。球団の方針として『のびのびとおおらかに育ててくれ』と伝えられていたのですが、そこからはコーチ陣ともミーティングをして『とにかく勝ちにこだわっていく』ということに決めました。
【天谷】僕も高卒2年目として二軍で試合に出ていたのですが、当時は二軍とはいえ首位に立つことが、どれだけすごいことなのかということをよく分かっていませんでした。ただ、当時のメンバーである嶋さん(重宣・西武二軍打撃コーチ)、廣瀬さん(純・一軍守備走塁コーチ)の目の色が、優勝が決まるか決まらないかというところで、グッと変わるのは感じましたね。チームが一つの方向を向いていましたし、毎日がとても楽しかったです。
【木下】選手たちにも『残り試合全部“勝って”いくぞ』と言ったらすごく燃えてくれてね。ベテランも積極的に起用していったら、選手たちも意気に感じてくれたようです。また普段なら大野に到着したらすぐ帰るような選手も、あの時ばかりは遅くまでティー打撃をするために練習場に残っていたりしてね。『あぁ、教育ってこういうことなんだな』と思いましたね。やっぱり自分がやる気になったときこそ選手は伸びるものなんですよ。
【天谷】そういうプレッシャーの中での経験はとても糧になったと思います。いつもならたかが1勝、1打点というところが、やっぱり勝ちにこだわる中でつかんだ1勝、1打点は選手にとってすごく自信になるんですよね。
(#2に続く)