『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

変幻自在のドリブルで両サイドを突破する柏好文選手。2019年はチームトップの8得点を奪っている。

 この連載の第1回にもある通り、Jリーグの背番号は1993年の創設当初、試合ごとに登録メンバー16人が『1』から『16』までをつけるルールだった(先発の11人が『1』から『11』、控えの5人が『12』から『16』)。いわゆる変動背番号制で、つまり最初の4年間、17番以降の背番号は存在していない。

 だが1997年にルールが変わり、選手がシーズンごとに1つの番号をつける、現在と同じ固定背番号制が採用された。その年に『18』を背負ったのが、FW高木琢也だ。

 1991年に前身のマツダSCに加入し、Jリーグ創設後もエースストライカーとして活躍。188センチ、82キロという体格を生かして得点源となり、1994年のサントリーシリーズ優勝にも貢献したが、変動背番号制の時代は『10』がお決まりの番号だった。

 なぜ10番ではなく、18番にしたのか。超有名インターネット百科事典では“初めて日本代表に選ばれたときの番号が18だったことに由来”と記載されているが、1992年の日本代表デビュー戦では20番をつけているので、そもそも番号が違う。そこで本人に確認してみると、面白いエピソードを聞くことができた。

「日本代表で20番になった理由は知らないのですが、マツダ時代の背番号が20番だったからでしょうか。あのとき18番にしたのは、10番と、末広がりの『8』を合わせた番号にしたかったからです」