プロ野球界で生き抜くことができる選手たちには、必ずそれだけの理由がある。競争に勝ち抜くための考え方、真摯に取り組む姿勢、敵を圧倒する技術、球種は必ず自らを助けるものとなる。はたして赤いユニホームを着た男たちは、どのような武器を持っていたのだろうか。記憶に残る4選手を4日間にわたって振り返る。

1999年から2006年までカープの一軍、二軍投手コーチを務めた清川栄治氏。

「『こんな投手がいてもいいじゃないか』。僕の野球人生はそういう考えから始まっているんです」

 清川栄治が登板した438試合は、全てリリーフとしての登板のみ。“左のスペシャリスト”として、15年間のプロ生活を全うした。その裏には、清川が常に心掛ける『創意と工夫』があった。

 投手王国と言われた1980年代のカープに入団し、北別府学や大野豊、川口和久らの投球に驚かされた。現実を直視し、清川は自ら「邪道」という道を歩むことを決めた。

「自分に何ができるのか。その道のスペシャリストになろうと思った」

 当時珍しかった左のサイドスローに転向し、左打者を抑えることに全精力を尽くした。特別な変化球や直球を持つわけではなかったが、積極的に内角を突く度胸満点の投球で成り上がった。しかし難しい役割ながら、当時、中継ぎ投手への評価はそれほど高くなかった。

「何かを心の支えにしたかったので、自分だけの数字をつくっていつも気にかけていた」

 何試合続けて抑えることができたか、どんな打者をどんな場面で抑えたかなど、ここにも彼らしい発想が見える。

「形にこだわる必要はない。自分が生きるために何をするかが大事」

『創意と工夫』は清川の野球人生を支え、投球スタイルを形作る基盤となった。

清川栄治●きよかわえいじ
1961年9月21日生、京都府出身。左投左打。京都商高-大阪商大-広島-近鉄-広島。438試合、13勝10敗12セーブ、防御率2.94。左の中継ぎ投手として抜群の制球力と変則フォームで活躍。1980年代に津田恒実や川端順らと強力ブルペン陣を形成した。438試合連続救援登板は当時の日本記録であり、歴史に残る中継ぎ投手となった。引退後は長らく投手コーチとして後進の指導にあたる。