カープ初優勝時の監督を務めた古葉竹識氏が11月12日に死去した。ここでは球界に偉大な功績を残した古葉氏を偲んで、過去「広島アスリートマガジン」で掲載された記事を振り返っていく。

カープ監督を11年間務めた古葉竹識氏。チームを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。

 今回は2012年、カープが15年連続Bクラスに低迷していた当時の企画「カープOBの提言」でのインタビューを前編に続いて、中編をお送りする。

◆控え選手のモチベーションも意識していた

 私の時代であれば、山本浩二、衣笠祥雄が昭和50年の初優勝を境にようやく主力としてチームの柱となってくれました。そしてその2人に続く選手を作っていかなければならなくなりました。

 例えばその時代にショートを守っていた三村敏之の動きが少し衰えてきたとき、「次のショートを作らなければならない」ということになりました。

 そして投手として入団してきた髙橋慶彦を「1年、2年掛けてでも次世代のショートに作り上げていこう」というチームの方針となりました。それからは慶彦が猛練習によってスイッチヒッターとして成功しました。これも後に続く山﨑隆造、正田耕三といった後輩たちにいい伝統として続いていったのです。

 さらにチームの中で大事になってくるのが、どこでも守ることのできるユーティリティープレーヤーです。

 当時は17人しか野手はベンチに入れない、そして8人はグラウンドに出ています。そうすると残りの9人の選手たちがどこでも守ることができれば、レギュラーの選手たちに何かアクシデントがあったときにチーム力を極力落とすことなく対処することができるのです。

 例えば「ここでピンチヒッターを使いたい」と思っても、『後に守る選手がいない』ということになれば采配が躊躇してしまいます。ですが、ベンチにそこを穴埋めしてくれる選手がいれば迷いなくゲームを進めることが出来るのです。  

 そんな控えの選手もプロですから、評価は『試合に出てなんぼ』なんです。いくら130試合ベンチに入っていても「ベンチにいただけか」と、評価はしてくれないのです。

 だから僕は「試合に出て少しでも給料を上げてもらうように頑張っていこうじゃないか」とベンチの選手たちには声を掛けていました。監督として、控え選手たちのモチベーションを上げていくというのも大切な仕事になってくるでしょうね。