カープ初優勝時の監督を務めた古葉竹識氏が11月12日に死去した。ここでは球界に偉大な功績を残した古葉氏を偲んで、過去「広島アスリートマガジン」で掲載された記事を振り返っていく。

カープ監督を11年間務めた古葉竹識氏。チームを4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。

 今回は広島アスリートマガジンとして最後の古葉氏インタビューから。2018年の衣笠祥雄氏への追悼インタビューをお送りする。

◆忘れられない1979年の代打出場

 サチ(衣笠祥雄氏)とはここ数年もよく会っていたのですが、1月下旬に、声がかすれ気味だったので「大丈夫か? 体を大事にしなければいけないぞ」という話をしていました。

 そして亡くなる4日前、巨人対DeNA戦の中継での解説をテレビで見ていました。それを見ていて「大丈夫かな」と心配していました。まさか、こんなに形で亡くなると思っていなかったものですから……私は大泣きをしてしまいました。

 私がカープ監督時代、サチは『どんなことがあっても試合出場を続けていくぞ』という気持ちを持ってやってきましたし、『山本浩二と2人で中心となってチームを引っ張ってやっていかなければいけない』という気持ちでプレーしてくれていました。その気持ちを私も理解していたので、彼らがやっていることに対して、私は何も口を挟むことはありませんでした。

 サチを語る上で有名なシーンとして、1979年8月の巨人戦で背中に死球を受け、彼は肩甲骨を亀裂骨折してしまったことがありました。当時、さすがに私も『もう連続試合出場はダメかな』と思いました。

 しかし翌日、彼は私のところにきて「今日もベンチに入ってやります」と言ってきました。私は「大丈夫ならベンチに入れ。試合のどこかで、代打でも連続出場を続けるのが一番だろう」と話をしました。

 やはり、連続試合出場を続けたいという強い気迫を感じましたよね。普通の選手であれば死球を受ければ、怒りを露わにすることもあるでしょう。

 しかしサチの場合、一切そういうこともありませんでしたし、『プロとしてファンのみなさんに喜んでもらえるプレーをしなければならない』という気持ちを常に持っている選手でした。そういう面では、彼が後輩たちにそういう姿勢を見せてくれたというのは、当時監督だった私としても非常に感謝しています。

 また、当時ファンの方々から「衣笠は本当に面白い選手だね、よく頑張っているね」といった声をかけていただくことがよくありました。サチがファンの方々からそういう風に思われていることが、『監督として本当に幸せなことだな』と思ったものです。

 サチは現役引退後、野球解説者として活躍していましたが、個人的には、早くコーチ、監督になってほしいとずっと思い続けていました。やはり、あれだけのことをやってきた選手でしたから。

 もし彼が指導者になれば、選手たちに対していろんな話をできたはずです。彼とも食事をしているときに「監督をやれ」と、そういう話をしたこともよくありました。

 カープ監督時代、本当にサチが頑張ってくれたおかげで、リーグ優勝もできて日本一にもなれたわけです。そして彼の場合は2215試合連続出場という途轍もない記録を達成するなど、野球界にとって素晴らしい功績を残してくれました。

 もっと元気にいてくれたら……。私は今82歳(2018年取材時)になりますが、彼は11歳年下。早いですよね、本当に残念でなりません。