歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2010年、ケガで長期離脱するも7年連続で2桁得点を達成した佐藤寿人。

【第7回】ナビスコカップ決勝戦で生まれたミシャとの距離感

 (前回の続きより・・)J1に復帰した2009年、サンフレッチェ広島にミカ(ミキッチ)が加入しました。トルコキャンプでのディナモ・ザグレブ(クロアチア)との練習試合で対戦し、素晴らしいスピードが印象に残っていただけに、『あのミキッチが来るのか!』と驚きましたね。ミカも自分から溶け込もうとして、少しずつ連係も深まりました。人間性も広島というクラブに合っていたのでしょう。

 前回記したように、2008年はJ2で戦いながらも、ただ復帰するだけでなく、J1で勝負できるようになることが大切だと考えていました。2009年は実際、十分にJ1で戦えたと思います。リーグ戦は4位。ミハイロ・ペトロヴィッチ監督(以下ミシャ)のスタイルも確立され、自分も15得点を挙げることができました。

 優勝争いへの3カ年計画の中で加入したのに、J2に降格して、難しさを痛感しました。でもJ1に復帰し、4位になったことで、タイトルへの思いが、より強くなったシーズンでもあります。

 2010年、この年のW杯日本代表のメンバーから落選した後、リーグ戦の中断期間にディナモ・ザグレブから獲得オファーが来ました。イタリアでプレーしたい思いがあり、そのステップとして移籍を検討しましたが、残留を決めたのは、タイトルを取っていなかったことが一番の要因です。本当の意味で、自分が広島にもたらしたものはまだ何もないという思いがありました。

 そうした状況でこの年、ナビスコカップ(現ルヴァンカップ)で決勝まで勝ち上がります。僕は9月8日の準々決勝第2戦で右肩鎖関節を脱臼し、全治2カ月と診断されましたが、何とか1カ月半で復帰して10月31日のリーグ戦でベンチ入りし、11月3日の決勝を迎えました。

 この試合もベンチ入りしましたが、ミシャは僕を起用しませんでした。広島は2-1とリードして迎えた後半終了間際に追い付かれ、延長の末に3-5で逆転負けして、初タイトルを逃します。大きなショックを受け、試合後は控室で泣きました。僕が出場できなくても優勝できればよかったのですが、プレーできる状態だったにも関わらず、ピッチに立てないまま敗れてしまった。あのとき初めて、ミシャとの間に距離ができました。

 11月7日は浦和とのリーグ戦でした。僕の心中をミシャも察していたのでしょう。この話は、おそらくメディアのみなさんには明かしたことがないのですが、試合当日、宿泊先のホテルのカフェに呼び出され、ミシャと話をしました。すべて納得できたわけではありませんが、「もちろんピッチに立たせてあげたかったが、負けたのだから、私の判断は間違っていたのかもしれない」といった考えを話してくれました。浦和戦は交代出場し、試合終了間際に決勝ゴールを決めてシーズン10得点に到達しました。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。