歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2008年、J1昇格が決まった後に行った本誌のインタビューで「悔しさを味わった他の選手と一緒に『サンフレッチェはJ2でやるようなクラブじゃないんだ』ということを証明したい、と思ってやってきました」と語った佐藤寿人。目を真っ赤にしてサポーターの前で誓った約束を1年で果たした。

【第6回】J2を共に戦ったことで縮まったサポーターとの距離

 (前回の続きより・・)仙台でJ1に復帰できなかった2004年に、自分の思いだけでなく、チームが戦力を落とさないことの重要性を痛感しています。なので正式に残留を決めた上で、チームメートにも呼びかけました。

 カズ(森崎和幸)も、(森崎)浩司も残ると言ってくれましたが、コマにはすぐに呼びかけることができませんでした。日本代表で主力でしたからね。少し遅れて話をしたのですが、結果的に磐田へ移籍することになりました。しばらく経ってからコマに「あのとき、なぜすぐに声を掛けてくれなかったの?」と言われました。「もちろん残ってほしかったけど、言えないよ」と答えた僕の気持ちをコマも理解してくれました。

 J2降格となりましたが、ミシャへの信頼が揺らぐことはありませんでした。ただ、2007年は結果が出なくても先発メンバーが変わらず、健全な競争がなかったと感じていて、それはミシャにとっても反省材料だったと思います。J1復帰に向けて、僕たちも、ミシャも変わらなければいけませんでした。

 2008年は初めてキャプテンを務め、全員が同じ方向を向いて戦うことを意識しました。J2への不安はさほどなかったのですが、自分たちが緩めるとJ2のサッカーに染まってしまうのではないかという危機感は持っていました。

 常に考えていたのは、1年でのJ1復帰は最低限の目標であり、復帰後にJ1で勝負できるようになることが大切だということです。

 広島の代名詞となる3-4-2-1の布陣が確立されたのもこの年です。1トップは一度やったときに手応えがなかったのですが、求められたのはポストプレーではなく、ゴールに直結する動きで、しかも2列目に浩司や陽介、(髙萩)洋次郎、ボランチにもカズやトシがいるので、どこからでもパスが出てくる。試合を重ねるごとにゴールの形が増えて、強くなっている実感がありました。

 ともにJ2を戦ったことで、サポーターのみなさんとの距離も縮まりました。スタンドに『共闘』という横断幕が出るようになったのは、この年だと思います。降格時は、もう広島の人たちが応援してくれなくなるのではないかという不安がありましたが、苦しい時期に手を差し伸べて一緒に戦ってくれたことが本当にうれしかったです。

 J2優勝・J1復帰を決めて、僕自身も28得点でJ2得点王になりました。多くの試合に勝ち、サポーターのみなさんと喜びを分かち合えた。前の年は悲しみや怒りもあったスタンドが笑顔に溢れていて、これがスタジアムのあるべき姿だと感じていました。J1復帰を果たし、2009年からはタイトルへの挑戦が始まります。(続く)

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。