『10』に代表されるように、サッカー界においてもたびたび話題として取り上げられるのが、各選手の背負う背番号だ。ここではサンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

サンフレッチェの『2番』を背負って6シーズン目の野上結貴。野上の代名詞となる日も近いかもしれない。

◆サンフレッチェの“守りの要” 歴代DFが背負ってきた背番号

 前回の連載で取り上げた背番号『1』はGKの番号で、そこから1チームの試合中の選手数である11までは、番号が大きくなるにつれてDF→MF→FWと、より前のポジションになっていくのが一般的。つまり『2』はDFの番号で、サンフレッチェでもDFが代々背負ってきた。

 1992年9月6日、サンフレッチェ史上初の公式戦となったヤマザキナビスコカップ(現YBCルヴァンカップ)の初戦、読売クラブ(通称・読売ヴェルディ、現・東京ヴェルディ)戦で2番をつけたのは、DF吉田安孝。

 マンツーマンで相手を封じる力強いプレーが持ち味で、Jリーグでの公式戦出場は少なかったものの、引退後は解説者などで活躍。本誌連載コラム『吉田安孝の紫風堂々』でもおなじみの存在だ。

 シーズンごとに各選手が個別の背番号をつけるようになった97年は、連載第3回で取り上げたDFポポヴィッチが2番。そのポポヴィッチが18番に変更した翌年以降、DF宮澤浩、DF川島眞也などが受け継いだ後、2003年からブラジル国籍のDFリカルドが2番を背負った。

 この年、初めてJ2で戦っていたサンフレッチェは、1年でのJ1復帰が至上命題だった。前所属クラブのベガルタ仙台でもJ2からJ1への昇格に貢献した経験を持つリカルドは、力強いボール奪取などの武器を遺憾なく発揮。出場停止の1試合を除くリーグ戦43試合に出場し、J1復帰の立役者の一人となった。

 サンフレッチェは2007年にも入れ替え戦の末に降格し、2008年は再びJ2で戦うことになる。このとき2007年途中から2番を背負っていたのが、ブルガリア国籍のDFストヤノフだった。

 ジェフ千葉時代にはイビチャ・オシム監督の下で中心選手として活躍し、オシム氏の愛弟子であるペトロヴィッチ監督が指揮を執っていた広島に加入。3バックの中央でプレーし、正確な長短のパスを駆使して攻撃のスイッチを入れ、圧倒的な強さでのJ2優勝に貢献した。

 2012年からは韓国籍のDFファン・ソッコが2番を背負った。連載第8回で紹介した韓国籍Jリーガーのパイオニア、FW盧廷潤(ノ・ジョンユン。当時の読みはノ・ジュンユン)と同じく、韓国のプロリーグではプレーせずに、大学から直接Jリーグにやってきた。

 パワーとスピードを兼ね備え、3バックの一角だけでなくサイドでもプレー。加入1年目にJ1リーグ初優勝、2年目に連覇を果たす絶頂期のチームにあって、出場機会に恵まれない時期もあったが、2年目はリーグ戦26試合に出場して活躍した。

 2012年にはU-23韓国代表の一員としてロンドン五輪に出場し、全試合に出場して銅メダル獲得に貢献。14年には韓国A代表としてブラジルW杯にも出場した。

 2015年に鹿島アントラーズに移籍し、清水エスパルス、サガン鳥栖でもプレー。32歳となった2021年で日本でのプレーは9シーズン目となり、息の長い活躍を続けている。

◆歴代最長『2番』は、来季も活躍に期待がかかるタフマン

 現在の背番号2はDF野上結貴。2016年途中にサンフレッチェに加入して、2021年で6シーズン目。歴代で最も長く2番をつけている。

 大学3年のときに横浜FCの特別指定選手としてJリーグにデビューし、中退して翌年プロ入り。J2で多くの試合に出場して評価を高め、2016年7月にサンフレッチェに完全移籍した。このとき、横浜FCの監督として野上をデビューさせ、プロ入り後も主力として起用していた山口素弘氏は、当時の森保一監督に電話をかけて「いいところに目をつけたね。あいつはスーパーだよ」と太鼓判を押したという。

 加入1年目のリーグ戦出場は4試合。2年目の2017年はJ1残留争いに巻き込まれ、ボランチでプレーすることが多かったが、2018年からはセンターバック、もしくは3バックの一角でディフェンスラインに欠かせない存在となった。怪我に強いタフな身体能力、運動能力と技術レベルの高さを生かし、契約を更新した22年も中心選手の一人として活躍が期待される。