広島でスポーツに携わる人ならば、一度は耳にしたことがあるであろう「体育社」。
総合スポーツ用品店である体育社は、野球用品の豊富な品揃えが特徴であり、広島で野球に携わる人たちが野球道具を購入する際、まず頭に思い浮かぶのが体育社の存在だろう。
野球を始め、同社で初めてグラブを購入する小中学生も多く、広島の野球少年たちにとっては“聖地”と言っても過言ではない。さらに、カープ選手が訪れることもあるらしく、いかに体育社が信頼されるスポーツ用品店であるかを証明している。
長年にわたり、広島の野球人たちから絶大な信頼を集める体育社の魅力は、何なのだろうかー?
本連載では、広島のスポーツ業界を長年にわたり支え続けてきた体育社に着目し、同社が特に力を入れている野球用品への熱き想いを中心に迫っていく。第1回目の今回は、改めて「体育社の歴史」を紹介する。
◆五輪ファイナリストからの金言が創業のきっかけ
創業は昭和22年。先代の会長である大野明が空軍として戦争に出征したのち、広島県庁で勤務しながら戦後の焼け野原となった、流川(現在の広島市中区流川町)にタバコ販売店を構え、その店舗において美津濃株式会社(ミズノ)のグラブを販売し始めたのがきっかけだったと、現在代表取締役を務める大野昌志氏は語る。
なぜ、野球のグラブを最初に販売し始めたのか?
理由を聞けば、当時先代の会長が勤務する広島県庁の仕事上の繋がりで出会った、「吉岡隆徳氏(昭和初期に活躍した陸上短距離選手。1932年に行われたロス五輪陸上男子100メートルのファイナリスト)による助言があったから」とのこと。
その吉岡氏は先代にこう言ったそうだ。
「これからは、スポーツだよ」
先代会長が吉岡氏から金言を授かる運命をつかむことができたのは、戦後当時を賢明に生き抜こうとする志と、その行動力の賜物だったのだろう。
以来、体育社はスポーツ用品店として順調に成長を遂げ、現在本社を構える中区三川町に7階建の社屋建設に至った。しかし、決して平坦な道のりではなかったという。
「当時は同業者による圧力等もあり、商品の仕入れ自体が困難になることもあったそうです」
当時の社長(現会長)が、とあるメーカーの東京本社を訪問し、土下座しながら「仕入れをさせてください」と懇願したにも関わらず断られてしまい、悔しさのあまり涙しながら帰ってくることもあった。
順風満帆ではない時代でも同社に協力的だったのが、今や日本の大手総合スポーツ用品メーカーであるミズノだったという。
「昔ながらのご縁を大切にするミズノとともに成長してこれた」
大野氏がそう語るように、縁を大事にしてきたからこそ、現在の体育社があると言っても過言ではない。