歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

サンフレッチェ広島のストライカーとして、最後まで存在感を見せた佐藤寿人。

【第14回】試合に出られなくてももがく姿を見せたかった

13回目から続く)
 2015年のJ1リーグで3回目の優勝を果たしたとき、前線で良い連係を築いていたドグ(ドウグラス)は1年で退団しました(UAEのアル・アインに移籍)。翌2016年、代わりに加入してきたのがウタ(FWピーター・ウタカ)です。

 開幕前は、新しい攻撃の形ができると感じていました。ウタはボールをキープできるし、若い選手より経験がある選手を信頼していたので、エリア内でフリーになっていれば、ちゃんとラストパスを出してくれたんです。ファーストステージ開幕戦では僕が先発、ウタが控えで、2人とも先発した第2節で僕が、第3節ではウタが初得点を決めました。

 第4節でウタが1トップに入り、僕は控えで、出場機会がありませんでした。ウタは第3節から4試合連続ゴールなどフィニッシャーとしての力を証明しますが、僕は控えのまま。プロの世界では当然の健全な競争で、状況を変えるには結果を出すしかありませんでした。

 なかなか先発に復帰できませんでしたが、腐らずにやるのは当たり前。限られた時間で結果を出すために、何をすべきかを考えていました。常に周りと話していたのは、先発する選手だけでは試合に勝てないので、控え選手がどうやって試合を決めるのか、控えにも入れない選手たちの思いも背負ってプレーしなければいけないということです。

 連載第3回で触れた2012年のナカジさん(中島浩司)や、2015年のヤマ(山岸智)のことも思い出しました。2人とも出場機会が減っていたのに、少ないチャンスで得点を決めて優勝に貢献しています。自分が扱いにくい存在になってしまうとチームにとってマイナスなので、2人と同じように、プラス材料にならなければいけないと考えていました。

 プロサッカー選手は華やかに見えるけれど、それだけではない。満足に試合に出られなくても、もがく姿を見せたいという思いは、妻や息子たちにも伝えていました。この年の3月で34歳になり、主役として活躍する時期ではないと感じていたのも事実です。だからといってポジション争いをあきらめるのではなく、現実を受け入れて、それでも結果を出せるようにする。試合に出ようが出まいが、やるべきことは変えませんでした。(続く)

【佐藤寿人連載】広島と共に戦った12年間

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。