歴代2位のJ1通算161得点、Jリーグ最多となる通算220得点など、FWとして数々の金字塔を打ち立て、2020年に現役引退した佐藤寿人氏。2005年にサンフレッチェ広島に移籍し、3度のJ1リーグ優勝に大きく貢献した。生粋のストライカーの広島での12年間を佐藤寿人氏の言葉で振り返っていく。

2016年10月29日の福岡戦。森﨑浩司のホームでのラストゲーム。この日、佐藤寿人の先制点に続き、森﨑が2点目となる有終ゴールを決めた。

【第15回】「移籍する可能性はあるか」最終戦後にかかってきた電話

14回目から続く)
 ファーストステージからセカンドステージにかけて3試合連続で先発した時期もありましたが、再び控えになり、結局この年の先発出場は8試合。その最後となったのがホーム最終戦。現役引退を発表していた、(森﨑)浩司のホームでのラストゲームでした。一緒に先発して2人ともゴールを決め、勝利で締めくくったのは素晴らしい思い出です。

 試合後、浩司の引退セレモニーを見ながら「来年は自分かな。それとも再来年かな」と考えていました。大好きなクラブ、大好きな街で、家族も一緒に称えてもらえる。もともと35歳くらいで引退したいと思っていて、体がボロボロになる前に、エネルギーが残っている状態でセカンドキャリアに向かいたいと考えていました。ただ、このときは、僕もこの試合がホームでのラストゲームになるとは想像もしていませんでした。

 ホーム最終戦の5日後、11月3日の最終節はアウェイでの新潟戦。再び控えになり、出場機会はありませんでした。ゴールを決めたのに、なぜ次の試合で出られないのか。試合後にポイチさん(森保一監督)と握手はしましたが、気持ちはギラギラしていて、〝まだファイティングポーズを取れている〟と感じたことを覚えています。

 試合後はチームの許可を得て、新潟に期限付き移籍していたガクト(野津田岳人)と食事をして、1泊することになっていました。名古屋の強化の方から電話がかかってきたのは、その食事中です。オファーというより「サンフレッチェから移籍する可能性はあるか」という確認のような内容でした。

 その場では「話を聞いてみなければ分かりませんが、可能性はゼロではありません」と答え、席に戻る前に妻と、兄の勇人に連絡しました。ガクトにも話しましたが「可能性は限りなくゼロに近いけどね」と言っていたんです。

 ただ、11月12日の天皇杯・鳥栖戦も控えで出場機会がありませんでした。これが僕の中では決定的でした。残留しても戦力ではなく、ピッチ外でチームを支える存在として求められるのではないかと感じて、それは受け入れられなかった。プロ選手は年齢に関係なく、ピッチ上で何ができるかを評価され、対価を受け取るという自分の考えとは一致しない状況に、移籍を考えるようになりました。  

 現地で施設などを見学して移籍を決断し、妻に電話で「名古屋でもう一度、選手として勝負したい」と伝えると「それを子どもたちも望んでいるし、できる限りのサポートをするから」と言ってくれました。この年に第3子が誕生したばかりで、負担をかけるという思いもある中で、家族が背中を押してくれたんです。(続く)

【佐藤寿人連載】広島と共に戦った12年間

●プロフィール
佐藤寿人(さとう ひさと)
1982年3月12日生、埼玉県出身。市原(現千葉)ユースから2000年にトップ昇格。C大阪、仙台を経て、2005年にサンフレッチェに移籍。3度のリーグ優勝に貢献し、2012年にはMVPと得点王を獲得した。2017年に名古屋に移籍し2019年からは千葉でプレー。2020年限りで現役を引退。通算のJ1得点数は歴代2位を誇る日本を代表するストライカー。引退後は指導者・解説者として活動している。