◆現役時代に出会ったエース級の投手たち

日本一に輝いた1984年に先発転向し、北別府学(左から2番目)や川口和久、山根和夫らとリーグ屈指の先発陣を形成した大野豊氏(右から2番目)。大野氏自身が語るように、勝ち星こそライバルたちに差をつけられたが、その安定感は当時の投手陣の中でも指折りだった。

 私の現役時代を振り返ってみると、中継ぎや抑えを経験した後、1984年に本格的に先発転向しました。ただ、当時のカープは投手王国で北別府学、山根和夫、川口和久など、エース級の投手が数人在籍していました。そういう状況の中で、私は自分自身がエースだと思ったことはありませんでした。

 先述しましたがエースの投球には内容と同じぐらい結果が伴わなければいけません。自分自身の投球を振り返ると、内容はともかく結果が伴っていない感覚を常に持っていました。持論として、エースは12、13勝程度を挙げるだけではいけません。当時は20勝、悪くても15勝は挙げないとエースとは呼べませんでした。ありがたいことに私は1988年に沢村賞を受賞することができましたが、その年も14完投して13勝でしたからね(苦笑)。

 入団した頃から先輩では福士敬章さん、池谷公二郎さん、そして先ほども名前を挙げた北別府や山根らを見ていたら、『やっぱりこういう人たちがエースだな』と思うようになりました。彼らはとにかくしっかりと勝ち星を挙げて、さらにその成績を数回記録していましたからね。

 私個人の感覚で言えば、もちろん勝ち星にこだわりはありましたが、どちらかと言えば防御率の方が強く意識していたかもしれません。初登板で防御率135.0というとんでもない数字を叩き出したわけですが(苦笑)、そういうこともあり内容に対してこだわりを持っていた現役生活だったように思います。(続く)

<プロフィール>
大野 豊(おおの ゆたか)
1955年8月30日生、島根県出身。77年にテスト入団を経てカープに入団。79、80年はリリーフとして2年連続日本一に貢献。84年に先発へと転向すると、88年には最優秀防御率、沢村賞を受賞。北別府学、佐々岡真司、黒田博樹などのエースたちと共にプレーし、前田健太が初の最多勝を獲得した10年は一軍投手コーチを務めていた。通算成績は148勝100敗138セーブ。