カープが球団創設26年目にして初優勝を果たした1975年、勝負強い打撃とパワーでチームをけん引した助っ人外国人・G.ホプキンス。

 山本浩二、衣笠祥雄らと強力クリーンアップを形成し、長距離砲として33本塁打を放つなど初優勝に大きく貢献した。来日1年目から結果を残した理由には、指揮官が求める役割を把握し、迅速に変化する“適応力”があった。

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2013年、日本整形外科学会学術総会のために来日したホプキンス氏。

◆求められていることは何かを考え、日本で打撃スタイルを変更

 当時、カープの顔でもあった山本浩二、衣笠祥雄とクリーンアップを形成したホプキンス。初優勝を果たした1975年には、33本塁打、91打点をマークした。

 来日1年目から日本でこれだけの成績を残せた理由には、打撃スタイルの変更がある。

 アメリカでやってきたことに固執することなく、加入したチームで自らが何を求められているかを把握し、変化を恐れなかった。

「カープに入団するまでは、広いスタンスで広角に打っていました。強い打球は打っていましたが引っ張ろうとはしませんでした。三振も少なかったです。でも、日本にやってきて変わりました。ジョー・ルーツ監督(入団時の監督)は、30本塁打できる選手を求めていました。そこで、私はスタンスを狭くし、引っ張る打撃もして要求に応えようとしました。ホームランを打とうと意識したのです。ただ、三振も増えましたけどね(笑)」

 ルーツがシーズン開幕直後に帰国したため、後任監督となった古葉竹識の存在も大きかった。春季キャンプからルーツが成し遂げようとしたものを受け継ぎ、選手起用もルーツ監督の流れを継続した。そして、各選手に明確な役割を伝え、迷いを払拭した。

「私にとっては、古葉監督は最高の監督の一人です。いつも鼓舞してくれ、素晴らしい野球観をもっていました」

 カープから南海ホークスに移籍した1977年に現役を引退すると、医学の勉強を重ね整形外科医に転身。野球とは異なる分野で活躍を続けている。

「カープの球団と選手は、私の人生と家族の人生を変えてくれました。そして、今も幸せに生活しています。だから、カープには頑張ってほしいです。現役引退後、勉強もして整形外科医にもなることができましたが、全ては日本にやってきたからこその結果です。1年プレーした南海ホークスもいいチームでしたが、一番の記憶はカープです。私の全てを変えてくれましたから」

 前例のない挑戦を支える活力となったのは、広島に歓喜をもたらした経験だった。

《プロフィール》
ゲイル・ホプキンス
1943年2月19日生、アメリカ出身
ペパーダイン大-ホワイトソックス-ロイヤルズ-ドジャース-広島(1975-1976年)-南海(1977年)

1975年に当時のカープ監督であったジョー・ルーツに声をかけられカープに入団。パワフルな打撃で33本塁打、91打点をマークするなど初優勝に大きく貢献。1977年に移籍した南海を最後に現役引退。日本での3年間で360試合に出場し、打率.282、69本塁打、229打点を記録した。帰国後は兼ねてから目指していた整形外科医に転身。