福岡市長が3年間練習に励んだ広陵高のグラウンド

◆名門校のキャプテンを務めて学んだこと

ー試合で印象に残っていることがあれば聞かせてください。

「1年生の新チームになった時に代打で起用してもらい、初球から打って左中間に2ベースを打ったことをすごく覚えています。バッティングは良くなかったので守備の方が好きでしたね。1年生の秋にメンバーに入ることができて、中国大会の決勝で先発出場だったんです。準決勝で正捕手の先輩がケガをされて私に出番が回ってきました。決勝の相手は広島商業だったのですが運よく、4打数3安打と結果も残り『甲子園のメンバーにも入れるかも』というところでした」

ー2年春にはセンバツ甲子園に出場されています。実際に選手として、甲子園に足を踏み入れた瞬間どんな気持ちでしたか?

「最初に見た瞬間はフィールドがすごく狭く感じましたね。ただ、フリー打撃や練習をし始めると、打てても全然外野の定位置より少し後ろくらいにしか飛ばないので『やっぱり広いな』と思いましたし、甲子園の土などを見て『これが甲子園か』と実感しました。1回戦では福岡工大高に14対1で大勝し、2回戦で育英高に0対4で敗れてしまいました。残念ながら私は試合に出場できなかったのですが、出たい気持ちはありながらもすごく緊張をしていましたね。甲子園に行けただけで幸せでした」

ーその後、新チームからキャプテンを任されました。名門のキャプテンを託された時の思いはどうでしたか?

「当時120名くらい部員がいましたが、みんなをまとめていかなければならない中で、まず責任感が育まれたと思います。自分が率先してやらなくてはいけないという気持ちはすごくありましたね。グラウンド整備、寮生活にしても姿で見せるなど、まず自分にできることから、みんなの見本になれるよう、自分自身で実践することを心がけていました」

ー名門校でキャプテンを務められた経験がその後、生かされたことはありますか?

「まとめる大変さはキャプテンという役を通じて経験させていただいたので、大学に行っても、社会人になっても、相手の立場を考えたり、トップがどう考えているのかなど、そういう面においては、キャプテンをした経験が非常に大きかったと思います」

ーキャプテンを務められて迎えた最後の夏は、広島商業と対戦されて惜敗されました。

「鮮明に覚えています。その時、私は試合に出ることができませんでした。キャプテンでありながら、試合に出られない悔しさがすごくありましたね。背番号2をいただいて、ベンチには入っていたのですが。やはり、悔しかったですね」

ー終わった瞬間、どんな気持ちでベンチから試合をみられていたのでしょうか?

「『出たかった』という気持ちでしたし、これで高校3年間が終わると思うと、脱力感、燃え尽き症候群のような状態が数日あったような気がします。甲子園にも行きたかったですし、そのために、しんどい練習にも耐えて頑張っていましたからね」

ー高校野球の3年間で1番学んだことはなんでしょうか?

「やはり社会人になるための指導を中井哲之監督にしていただいたことです。『人生は野球だけじゃないぞ。野球ができるのは、周囲でサポートしている人たちがいるから、感謝の気持ちを忘れるな』ということや、『必ずお世話になった人のところには、挨拶に行きなさい』など、そういうことを叩き込まれていました。ですので今でも少なくとも、年に1回は広陵に行きますし、何かあれば、中井先生に報告もします。そして今でも、中井先生を目の前にしたら直立不動です(笑)」

ー福岡市長にとって、中井監督はどんな存在ですか?

「恩師であり、兄貴分です。中井監督からは『ベンチに入っている選手は、出られない選手を思いながら、アルプス席で声援を送っている選手の姿を思い出せ。それがあるから、広陵の伝統があるんだ』とずっと教わってきました。現在は“一人一役、全員主役”という言葉で、部員のみなさんはプレーしているようですね。組織マネジメントではないですが、日のあたるところで仕事をする人、表に出ない人がいます。でも1人でも欠けたら、その仕事は出来ません。パズルと同じで、1つのピースでも抜けてしまったら、パズルは完成しません。みんなが主役だということは、色々な機会で話をさせてもらいます」

ー福岡市長にとって高校野球とは何ですか?また良さを聞かせてください。

「人生の基礎を築いてもらった3年間です。そして『苦しいことが9、喜びは1』というイメージがあります。でも、その1つのことに対して、本気で取り組むということを教えてもらいました。1つの目標に向け、喜びを味わうためには、努力して苦労してやっていかないと、目標はなかなか達成はできません。やはり、何も努力せず過ごす人というのは、結果を出すことはできないと。コツコツと積み重ねることの大切さも高校野球で教わりました。1つ自分で決めたら、やり通すということを高校野球の3年間で教わったと感じていますし、それが高校野球の良さでもあると感じます」

ー現役の高校球児はコロナ禍の影響を受けてきました。この状況をどのように感じられますか?

「高校野球がしたくて、目標に向かって頑張っているはずだったのに、練習ができなかったり、試合ができなかったりという状況が続いたということは、私たち経験者にとって悲しいことでした。ただ『あの時に自分たちは高校野球をしていた』ということ、『しんどかったけど制約があったなりに、色々なことを見出して練習し、試合をしていたよね』と、大人になって思い出話のように語れるようになってほしいと思います」

ー最後に高校球児のみなさんにメッセージをお願いします。

「コロナ禍で、試合や、甲子園が中止になったり、今までの日常が当たり前ではなくなっているというのが、この2年間だったと思います。この2年間をネガティブに捉えず、ポジティブに捉えて、今からの人生に必ず生きてくる時が来ると、そう信じて頑張ってほしいです。自分の気持ちの持ちよう1つで、成就することもあると思います。コロナ禍だからこそ、逆に反骨心を持って頑張ってほしいですね」

 

《プロフィール》
福岡誠志(ふくおかさとし)
1975年6月16日生まれ、広島県三次市出身。十日市小学校時代に野球を始める。1991年に広陵高に入学し、野球部に入部。1992年春にセンバツ甲子園に出場。3年時にはキャプテンを務めた。大学卒業後、湧永製薬勤務を経て、2001年に三次市議会議員初当選し、2018年まで議員を務めた。2019年4月に三次市長に就任。