かつて広島県の高校野球で球児としてプレーし、「社会で活躍する“広島の元高校球児の今”」を追う本連載。今回は、現在広島県三次市で市長を務める福岡誠志さんに話を聞いた。

 福岡氏は高校時代、広島県高校野球界の名門・広陵で3年間プレーし、2年春には甲子園出場、そして3年時にはキャプテンも務めた。卒業後は大学、一般企業勤務を経て、三次市議会議員を長く務め、2019年から三次市長に就任している。

 政治家として長年活躍されている福岡さんに、広陵野球部時代の思い出と、高校野球に対する思いを語ってもらった。

広陵高校硬式野球部OBで、現在三次市長の福岡誠志氏。

◆人生の基礎を築いてもらった3年間

ーまずはじめに、野球との出会いを聞かせてください。

「私が少年時代は“遊びが野球”という時代でもありましたので、自然の流れと言いますか、友達みんなで『野球をやろうや!』と小学校の時に三次の少年野球チームに入ったのがきっかけです」

ー当時はどのような野球少年でしたか?

「体が硬くて、不器用で……(苦笑)。小学校の頃は体は大きい方でした。最初のポジションはサードでしたが、6年生になってキャッチャーを守りました。それからは高校までずっとキャッチャーですね」

ー司令塔だったんですね。キャッチャーというポジションをどのように捉えておられましたか?

「私はキャッチャーは面白いポジションだと思いますね。ポジション柄、マスクやレガースをつけますので、最初は『暑いなぁ……』と思いましたし、座れば足が痛くて嫌で嫌でたまらなかったです。ですが、ピッチャーをリードしたり、野手の守備位置を指示したりと、キャッチャーの魅力に気づいたのは高校に入ってからですね」

ー高校進学にあたり、広陵高を選んだ理由を教えてください。

「中学の2学年先輩、1学年先輩が広陵野球部に進まれていたんです。先輩方とは小学、中学と同じチームでプレーをさせていただいておりましたので、また一緒にプレーしたいという気持ちがありました。『先輩が広陵に行ったんだな。カッコいいな』という思いがありましたよね。そして甲子園に行くことを目標にしていましたので、広島県高校野球界の名門である広陵で自分の力を試したいという気持ちで進学を決めました」

ー福岡市長が入学直前に、広陵は春のセンバツで全国制覇されましたね。

「そうですね。マスコミがとても多かったですし、すごく華やかだった記憶がありますね」

ー入学後は初めての寮生活とのことですが、思い出はありますか?

「上下関係は当然厳しいところもありましたが、とても充実した寮生活でした。最初は地元の先輩方がいたこともあり、心強さはありました。寮から学校に行って、お昼は寮で昼食をとり、学校に戻って授業、寮に戻って練習着に着替えて、練習して、晩ご飯を食べて、自主練して……の繰り返しでした」

ー寮生活からどのようなことを学ばれましたか?

「寮生活だけに限らず、3年間の高校野球を通じて、上下関係、人とのつながり、挨拶の大切さ、社会に出て通用する指導などを、徹底的に学ばせていただきました。やはり人として成長できた面が大きいと思っています」

ー広陵野球部で印象に残っている練習はありますか?

「基礎トレーニングですね。徹底的に走り込みがありました。厳しかったのですが、『広陵での練習は厳しい』『しっかり練習して、走り込んでおけよ』と言うことを、中学の頃から常に言われ続けていたのでなんとか乗り越えられました。そもそも、中学の練習もとても厳しかったので。その延長という感覚でしたね」