五輪への思いを抱く大学時代

法政大学在学中の筋力増強に成功。目標としていたシドニー五輪代表メンバーに選出されるなど存在感を示した。

 因縁の相手である柳ケ浦高との対決を制し、私たち佐伯鶴城高は甲子園へ出場を決めました。目標にしていたので、とてもうれしかったです。

 甲子園に入場したときは、私が小学生時代、津久見高の川崎憲次郎さん(元ヤクルトなど)が投げている試合を見に行ったときの“甲子園独特の匂い”と“雰囲気”が蘇ってきました。

 試合では初戦で市立船橋高と対戦しましたが、残念ながら2対3で敗北。犠牲フライを打たれてサヨナラ負けだったのですが、センターを守って捕球体制に入っていた私は、打球が飛んできたときに「もうこれでゲームセットだ」と思ってしまったことを覚えています。

 周囲には当時から「プロ野球選手にならないの?」と聞かれていましたが、私はそういった声に対して「消防士になります」と即答していました。

 そう答えていた理由は前回も書いた通り、自分の中で消防士という職業に対して強い憧れを持っていたこともありますが、大分県の野球のレベルに自信が持てなかったということもあります。大分県の中で名が知れていたとしても全国にはもっとすごいレベルの選手が山ほどいるだろうと思っていたのです。

 ただ、周囲の方々が熱心に野球を続けることを勧めてくれていました。当時、法政大の監督を務められていた山中正竹さんが佐伯鶴城高出身だったこともあり、私は法政大への進学を決めました。

 山中監督から言われたのは「君みたいな選手はたくさんいるし、それ以上にうまい選手もたくさんいる。そんな中で法政大で頑張る気持ち、覚悟はあるか?」と聞かれました。

 4年後にシドニー五輪が控えていた時期でしたので、その五輪の代表メンバーに入れるような選手にならなければ野球を辞めようと思っていたほど、強い意志、覚悟を持って大学に入学しました。

 また五輪で代表に選ばれることがあれば"プロ入りもぐっと近づくはずだ"と考え、そのときに初めて明確にプロ野球選手になりたいという目標を持ちました。

 ただ私の心に引っかかっていたのは寮費や部費、そして学費などによってかかる両親への負担です。

 そのことを正直に両親に相談したところ「お金のことは心配しなくていいから、自分のやりたいことをやったら良い」と言ってくれました。今でもそのことは覚えていますし、心から両親に感謝しています。