それぞれの想いや信念を胸に、プロ野球の世界で戦い抜いたカープ戦士たち。

 現役生活を終え、これまでカープOBが歩んできた、野球人生の軌跡を辿っていく広島アスリートマガジンの人気連載。今回は、現在カープで二軍外野守備走塁コーチを務める廣瀬純コーチが、2017年にお届けした物語を振り返っていく。

強肩強打の外野手として、2000年代前半に低迷するカープを支え続けた廣瀬純。

◆​小さい頃から豊かな自然の中で運動神経を鍛えた

 私が野球と出会ったのは小学4年生のときのことでした。当時通っていた小学校のクラスに男子が10人いたのですが、私以外の男子は全員、小学校の野球クラブに入団していました。毎日放課後になると、グラウンドに駆け出して野球をしているクラスメートを見ていた私が、野球をやりたいと思うのは自然な流れでした。

 クラスの男子の人数からも分かる通り、私の故郷である大分県臼杵市は本当に田舎でした。実家の目の前は田んぼ、後ろには山があり、春はタケノコを取り放題という土地でした。

 田んぼでキャッチボールをしていましたし、自然の中で自由奔放に遊ぶ活発な子どもだったこともあり、野球を始める前から足の速さや肩の強さには自信がありました。

 というのも小さい頃から実家で栽培していた『かぼすやみかんの腐りかけたもの』を、遠くに投げて遊んだりしていたからです。

 幸いなことにファンの方々からは、私に対して強肩の選手としてのイメージを持っていただいていたようですが、この肩の強さは大分のカボスやミカンがつくり上げたと言っても過言ではありません(笑)。

 当時の憧れは秋山幸二(元西武など)さん。カープファンのみなさんにとっては、嫌な思い出かもしれませんが……1986年カープとの日本シリーズで、秋山さんがバク転を決めたシーンが私の脳裏に焼きついていました。

 ただプロ野球選手になりたいという思いは、私の中にはありませんでした。地元で火災が起こった際に、父親が必死に消防活動をしている姿を見て、純粋にかっこ良いと思っていたこともあり、小さい頃の夢は消防士でした。

  地元の中学校に進学して野球を続けていましたが、入学からしばらくの間は成長期と重なり、膝の痛みに悩まされました。

 膝の痛みで野球ができないことも残念でしたが、何より私が落ち込んだのは体育祭のリレーの選手に選ばれなかったこと。小学校からずっと選ばれていただけに、選出から漏れてしまったことは本当に悔しかったです。

 膝の痛みがなくなってからは、陸上部の助っ人部員として大会に出場していましたし、肝心の野球では全てのポジションを経験させてもらいました。

 中でも一番楽しかったのは投手です。身長は153cmから176cmまで伸び、球速も軟式球で130キロを計測するまでになっていました。