◆一つの敗戦から猛練習に打ち込んだ

 その後、私は県立佐伯鶴城高に進学しますが、当初の進学希望は津久見高でした。理由は小学4年のときに、川崎憲次郎さん(元ヤクルトなど)が、甲子園で投げる試合を見て以来、津久見高で甲子園に出場するのが私の憧れだったのです。

 しかし私の従兄弟が佐伯鶴城高で水泳をやっていたこともあり、セレクションを受け、そこで見せた投球を野球部の監督さんと部長さんに評価していただきました。

 また当時の大分県の県立高で佐伯鶴城高は唯一体育科のある高校で、たまたま城島健司さん(元ダイエーなど)が在籍していた別府大附高(現・明豊高)と佐伯鶴城高の試合を実際に見たことも影響して、私は佐伯鶴城高に進学することを決意しました。

 高校時代は野球の練習が厳しいというよりも、それ以外の野球部の先輩と後輩という上下関係が非常に厳しかった思い出があります。

  2年時からライトのレギュラーとして試合に出場させてもらっていましたが、2年生の夏の大会では初戦で負けてしまいました。当時のエースが2年生だったということもあり、私は「新チームになってもいけるだろう」という考えを持っていましたが、1年生大会の試合で柳ケ浦高にコールド負けをしてしまったのです。

 自分たちの甘さを痛感させられた結果となりましたが、私たちはその敗戦をきっかけに目の色を変え、毎日夜の10時頃まで練習に取り組むようになりました。

 金属バットでティー打撃をしすぎて、学校の隣のお寺から「練習の音がうるさ過ぎて木魚の音が聞こえずお経が唱えられない」と苦情が入ったこともありました(苦笑)。そのぐらい熱心に練習していた私たちは、主要な大会は全て優勝していきました。

 最後の夏の大会は優勝候補と言われていましたが、準々決勝で対戦したのが以前こてんぱんに打ちのめされた柳ケ浦高。相手にとって不足なし、やり返してやろうと思っていましたが、なんとその試合では初回に5点を取られてしまいました。

 「負けてしまうかもしれない……」。チームにそんな不安が漂いましたが、それを払拭してくれたのが、私たちのチームの一番を打っていた選手。彼が先頭打者本塁打を打って嫌なムードを一気に吹き飛ばしてくれたのです。

 最終的には、私が8回裏に一、二塁の場面でタイムリーを打ち同点に追いつくと、9回に押し出し四球でサヨナラ勝ちを収めることができました。その勝利で弾みをつけた私たちは、見事甲子園への切符をつかむことができたのです。