11年の在任期間に、4度のリーグ優勝、3度の日本一を成し遂げ、今もなお、名将と語り継がれる故・古葉竹識が語る監督論には、一貫した哲学が垣間見えた。2013年に広島アスリートマガジンのインタビューで語った、監督の在り方を再度見つめる。

『強いカープ』を築いた古葉竹識監督は、多くの選手から慕われた。

◆チームをつくり上げるのは全て監督の責任

 カープ監督時代は、広島での開幕戦に行く直前に、毎年応援団の方々が朝早く家まで来てくれて「今年も頑張れよ!」と出陣式をしてくれました。現在の監督ではこういうことはあり得ないのではないでしょうか。

 ここまで広島で頑張ることができて、そして評価していただけたというのは、そういう方たちが一生懸命、必死になって応援してくれて、スタンドから目を光らせて選手たちを見ていただいていたからです。やはりファンのみなさまと一体となってこそ、本当の意味での『全員野球』ですよ。

 一丸となって野球をしないことには、良い結果は出ませんから。そういうファンの方たちとつながっていたことが、優勝に結びついていったと思っていますし、私が今でも大学野球の監督(編集部注: 2008年〜東京国際大野球部監督に就任)をさせていただいて現役でいられるというのは、そういう方々のおかげだと思っています。

 当時、オーナーとの話しの中で「コーチに責任は一切ありません」と、いつも言っていました。私がこんな練習を取り入れて選手たちをレベルアップさせてほしいということを、コーチにお願いをしているわけですから。そしてその通りに、コーチのみんなは一生懸命に動いてくれていました。

 ですから私は「コーチ連中に辞めてもらうつもりはありません。負けて成績が残せなかったときは全て監督の責任です。もしものときには、どうぞ私をクビにしてください」ということをオーナーに常々言っていました。選手、コーチを使っているのは自分なのです。ですから常に一年一年、覚悟を持つのが監督というものです。

 そして、自分なりにいつも思ってきたのは『自己満足ではどうしようもない』ということ。このチーム、この選手たちで、相手の5チームと戦えるかということを考え、どのようにすれば勝てるのかを考えてチームをつくり上げていくのは、全て監督の責任なのです。

つづく

古葉竹識/こば・たけし
1936年4月22日生、熊本県出身。1958年にカープに入団すると、1年目からショートのレギュラーに定着。1963年には長嶋茂雄と激しい首位打者争いを繰り広げ、打率.339をマーク。また2度の盗塁王を獲得するなど俊足好打の内野手として活躍した。引退後、1974年にコーチとしてカープに復帰すると、1975年にルーツ監督の後を継いで5月に監督に就任。その後快進撃を見せ、球団創設26年目の初優勝を果たした。以後も1985年まで指揮を取り、4度のリーグ優勝、3度の日本一に導いた。1999年に野球殿堂入り。

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