毎年さまざまなドラマが生まれ、そして新たなプロ野球選手が誕生するプロ野球ドラフト会議。カープはこれまで、数々の名スカウトたちが独自の “眼力” で多くの逸材を発掘してきた。かつてカープのスカウトとして長年活躍してきた故・備前喜夫氏が2001年ドラフト1巡目で入団した大竹寛の獲得秘話に迫っていく(過去の掲載記事を再編集)。
◆肘が柔らかく、腕がムチのようにしなる
私が彼を初めて見たのは高校3年の夏の甲子園予選だったと思います。高校1年の頃から彼に注目していた苑田スカウトから「身体が大きくストレートが速い右の本格派で、将来はカープのエースになれる選手がいる」という話を聞いて埼玉に彼を見に行きました。
2001年当時のカープは、黒田以外に右の本格派と呼べる投手がなかなか育っておらず、この年のドラフト会議で何としてもその素質を持った選手を獲得しなければなりませんでした。そこで注目したのが大竹だったのです。
初めて大竹を見たときは「フォームはオーソドックスなオーバースローだが、肘が柔らかく投球時に腕がムチのようにしなり、球持ちが非常に長い。球も回転が良くキレがあり球威も十分にある」と感じました。
よく『球持ちが長い』と言いますが、球持ちが長ければ長い程、打者はタイミングが取りづらくなります。そしてリリースポイントが打者に近くなるため体感速度も上がります。3cm程近くなると、打者はスピードガンの表示よりも5kmも速く感じると言われていますから、当時の大竹のストレートが140~144kmだったことを考えると、打者の体感速度は140km台後半だったのではないでしょうか。変化球はカーブとスライダーを投げていましたが、特にスライダーが一級品で、これならすぐにプロで通用すると思いました。また、フィールディングや牽制球といった守備面でも安定感があるなという印象も受けました。
甲子園には出場することはできなかったものの、これだけ素晴らしい素質を持った選手ですから、アジアA3選手権日本代表に選ばれ、ほかの11球団のスカウトが注目したはずです。しかし、ドラフト会議ではカープだけが大竹を指名しました。その理由は甲子園で154kmをマークした寺原隼人(元ソフトバンクなど)に注目が集まっていたからです。
確かに当時の大竹と寺原では実力的には寺原の方が上でした。ただ、その力の差というものはプロに入って練習をすればすぐに追いつけるくらいのものでしたし、私は大竹に、寺原よりもスケールの大きさを感じました。ですからカープは彼を指名することに決めたのです。今考えてみると、このときに大竹を指名できたことはカープにとって非常に大きなことだったと思います。
初めて話をしたのはドラフト会議が終わってから行われた契約のときです。そのときに一番感じたことは、非常に頭の回転が早く賢い選手だなということです。後から学力特待生で成績は常にトップクラスという話を聞きましたが、それもうなずけます。
【備前喜夫】
1933年10月9日-2015年9月7日、広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987〜2002年はチーフスカウトを務めた。野村謙二郎、前田智徳、佐々岡真司、金本知憲、黒田博樹などのレジェンドたちの獲得にチーフスカウトとして関わった。