2023年6月16日に流れた突然の訃報は、多くの悲しみに暮れ、大エースの残した偉業を振り返った。入団以来、常にエースの側でその姿を見続けてきた左腕。歳は2つしか違わなかったが、新人との実力は歴然だった。共に猛練習に耐え、汗を流し、酒を酌み交わし、やがて二人はライバルとなった。

勝つためだけに厳しい練習を黙々とこなす姿に、後輩たちも大いに刺激を受けた

◆試合が終わると良き兄貴分

 当時のカープ投手陣は、チーム内のライバルでもあり、厳しい練習に耐える仲間でもありました。練習は、それはもう本当にめちゃくちゃ厳しかったです。ですが北別府さんは、練習で手を抜くことは一切ありませんでしたし、自分に対してすごく厳しい方でした。
 あの地獄のような練習の後に、最後まで残って1人でランニングをする姿をよく見かけました。ですから北別府さんが残された213勝という数字は、その結果の現れだと思うのです。低めの制球というのは、下半身の強さが一番重要視されます。
 そのための妥協のない練習を、黙々とこなし続けていた方でした。練習をするときは、とことん自分を追い込んで、休みの日には軽く練習して終わりという、メリハリも大切にされていました。

 そんな日々の練習を耐え抜いてきた仲間ですから、自然と団結力が生まれます。当時は、個人練習で自分の欠点をしっかりと克服するという時代ではありませんでしたから、個人練習はほとんどしませんでした。
 チームとして、投手陣としてみんなで厳しい練習を乗り越えてきた団結力を持つ、一つの集団になっていましたから、みんな仲が良かったです。当時は、投手陣の中心選手に北別府さんと大野(豊)さんがいて、北別府さんとはよくお酒を一緒に飲んでいましたが、大野さんはお酒を飲まないので、飲まない組はみんなでずっと麻雀をしていました。

 当時のカープは投手王国と呼ばれている時代で、大野さん、北別府さんを中心に、私も投手陣の三本柱としてローテーションが形成されていました。その投手陣をいつもリードしてくれていたのが、正捕手の達川(光男)さんです。
 よく達川さんが言われていたのですが『北別府は、ベースのサイドの縁をかすめる横の変化を使う投手。川口は、カーブとストレートの高めを使いながら、縦の変化を使う。大野さんは、横も縦も両方使える投手』だったと。ですから、3人はタイプが違っていたんです。達川さんとしては、それぞれリードがしやすかったとおっしゃっていました。

 私が北別府さんと勝ち星で肩を並べられるようになったくらいから、少しずつお付き合いが少なくなっていきましたが、3人の共通の趣味である釣りには、よく一緒に行っていました。
 旧広島市民球場から大野寮まで3人で車で行って、寮に車を止めて、その近くのマリーナから一級船舶免許とクルーザーを持っていた北別府さんの船に乗って、宮島沖でラジオを聴きながら夜釣りをしていました。
 試合の時はライバルという存在になれましたけど、それが終わって『釣りに行くぞ』と言われれば『はい。行きましょう!』と、やはり弟分として可愛がっていだいていました。

川口和久●かわぐちかずひさ
1959年7月8日生、鳥取県出身。鳥取城北高-デュプロ-広島(1980年ドラフト1位)-巨人(1995〜1998)。高校時代から注目の左腕として騒がれたが、社会人野球へ進む。1980年ドラフトで原辰徳を外した1位でカープから指名を受けプロ入り。古葉竹識監督からも高い評価を受け、北別府学氏らとともに投手王国の一時代を築く。左腕投手としては珍しいスイッチヒッターとして打席に立った。現在はプロ野解説者をしながら、地元の鳥取で農業やスポーツ振興に力を注いでいる。

 
広島アスリートマガジン8月号は、「追悼特別特集 北別府 学 ありがとう 20世紀最後の200勝投手」カープが誇る大エース北別府学氏が残した偉業の数々を振り返りながら、強いカープを共につくりあげた仲間たちが語るその姿をお届けします。