現役時代100勝100セーブを記録し、先発・抑えでカープ投手陣を長年支えた佐々岡真司氏。エースとして通算4度の開幕投手を務め、2020年からは3年間監督としてカープを率いた。投手の心理を知り尽くすカープのレジェンドに、開幕投手についての考えを聞いた。(全2回/第1回)

現役時代、先発100勝100Sを達成するなどカープ投手陣を支えた佐々岡真司

開幕を迎えるまでのこだわりと、選手に伝えるタイミングのこだわり

─佐々岡さんは1990年にプロ入りされましたが、当時のカープは『投手王国』と言われる時代でした。

 「ドラフト1位で入団しましたが、在籍している投手を見ると大野(豊)さん、川口(和久)さん、北別府(学)さん、長冨(浩志)さん、金石(昭人)さんなど……錚々たるメンバーでしたからね。ドラフト1位だからといって一軍が確約されているとは限りませんでした。初キャンプで同年代の投手と一緒に練習したときも『こんなすごい球を投げる投手が一軍に上がれないのか?』と衝撃を受けましたし、11人の投手枠に入れないかもしれないと自信をなくしました」

─その不安とは裏腹に1年目から一軍で活躍し、2年目には最多勝を獲得されました。早い段階から開幕投手のチャンスがあったのではないでしょうか。

「プロ2年目の1991年はリーグ優勝して、私は最多勝だったので『来年は開幕投手かな……』と意識したこともありましたが、結果的に翌年は長冨さんが開幕投手でした。いつ開幕投手を言われるのかも分かりませんでしたし、とにかく『アピールしなくては』と思っていました。今はキャンプインから実戦パターンで取り組んでいますが、当時は2月終盤に実戦が取り入れられるので、そこまではとにかく投げ込みでアピールしていました」

─通算4度開幕投手を務められていますが、意外にもプロ6年目の1995年が初の開幕投手でした。

 「初めての開幕投手は、三村(敏之)監督2年目のシーズンでしたが、その時はキャンプ初日の2月1日に言われました。『自覚を持って調整しろ』と言われた記憶があります。二度目の開幕投手は達川(光男)監督2年目の2000年でしたが、実は達川監督1年目も開幕を投げる予定で、達川さんが就任した直後の1998年の12月に『来年の開幕投手はお前だ』と言われていました。ですが、開幕10日前くらいに足をケガしてしまいました。当時は予告先発がなかったので、報道陣のみなさんを相手に隠すことに必死でした(笑)。調整はかなり遅れていましたが、『開幕投手は分からないよ?』とみんなで隠していて、開幕投手はミンチーでしたね」

─現役時代、開幕投手にどのようなイメージを持たれていましたか?

 「監督に『開幕投手』を託されたときは、1年間エースとして、投手陣の軸としてやっ

ていくんだという気持ちと、『エースだから頑張ってくれよ』と期待されている言葉だと感じていましたね」

─早い段階で開幕投手が決まった場合の調整は難しいものなのですね。

 「そうですね。オフから2月のキャンプ、オープン戦を過ごす中で、開幕投手というプレッシャーを感じながら、うれしさとありがたい気持ちも感じながら迎えていました。ただ、『調整を見なくても信用してくれているんだ』という意気に感じていました。自分が監督になったときには3年連続で大瀬良大地に開幕投手を任せたのですが、1回目は12月25日のクリスマスに伝えましたね」

─伝える日付は意識されたのですか?

 「意識しましたね。クリスマスプレゼントという意味でも12月25日が良いなと思っていたら、球団の方から『今大瀬良は新婚旅行でハワイに行っています』という情報が入り、どうしようかと悩みました(笑)。ですが、逆算して現地の12月25日の0時に合わせて、LINEをおくりました。『ハワイだろうけど、来年開幕投手を頼むぞ』と。すると『今は、ゆっくりさせていただきます。帰ったらしっかり練習させていただきます』と返信がありました(笑)」

─現役時代のご自身の経験があったからこその対応だったわけですね。

 「監督から早く言われたときの『意気に感じる気持ち』を知っていましたからね。また、私が監督2年目は大瀬良、九里がFA権を取得した時期でした。オフに3人で食事をしたのですが、引き止めることを考えたものでした。大地は『ほぼ気持ちは決まっていますし、宣言せず残りたいと思います』、九里は『家族と相談します』と言ってくれました。その後、大瀬良と2人になるタイミングがあり『来年も(開幕投手を務めることを)わかってるな』と言って、その場で伝えました」