1993年の創刊以来、カープ、サンフレッチェを中心に「広島のアスリートたちの今」を伝えてきた『広島アスリートマガジン』は、2025年12月をもって休刊いたします。32年間の歴史を改めて振り返るべく、バックナンバーの中から、編集部が選ぶ“今、改めて読みたい”記事をセレクト。時代を超えて響く言葉や視点をお届けします。
第5回目の特集は、広島アスリートマガジン創刊初期の企画『コイが生まれた日』シリーズから、人気の高かったインタビューをセレクション。
かつてのカープドラフトの裏側にあったエピソードを、カープ伝説のスカウト、故・備前喜夫氏の言葉で振り返る。今回は、日本シリーズで通算5勝を挙げた“シリーズ男”、1975年のドラフト会議で2位指名を受けた山根和夫の入団秘話をお送りする。(広島アスリートマガジン2006年連載「コイが生まれた日」再編集)
◆市民球場で見たあの剛速球は、今でも頭に焼き付いている
2006年時点で、カープはこれまで6度のリーグ優勝を成し遂げ、3度日本一に輝いています。その日本一になった日本シリーズで最も勝ち星を挙げた投手が、1975年にドラフト指名した山根和夫です。
驚くことなかれ、200勝投手の北別府でさえも、1979・1980・1984年の日本シリーズでは勝ち星がない(9試合に登板し、0勝4敗、防御率3.02)のにも関わらず、山根は同じく9試合に登板し、なんと5勝。勝利した全12試合のうちの約半分の勝ち星を手にしているのです。
そんな山根を指名するキッカケとなったのは、彼が社会人の日本鋼管福山(現・JFE西日本)でプレーし、3年が過ぎたとき。季節はちょうど夏前、広島市民球場で行われていた都市対抗の広島予選でした。そのとき、スカウト1年目だった私は、カープが球界で一番最初にアメリカから導入したスピードガンを構えて同僚と一緒に様々な投手を見ていました。そして、そのとき山根が登板していたのです。
山根は以前にも何度か見たことがある投手でした。ただ、そのときは球速が特別速いという訳でもなく、ましてやコントロールがずば抜けてよかったり、すごい変化球を投げていたというわけではありませんでした。さらに日本鋼管福山には田村というエースがいたため(田村は当時アマチュアでNo.1の投手でした。しかし、何度ドラフトで指名されても決してプロに行くことはありませんでした)、山根は2番手か3番手の投手だったのです。ですから特にマークしていた選手ではありませんでした。しかし、市民球場で見た山根は、これまで私が見たことのない山根だったのです。
先ほども言いましたが、私たちはスピードガンを構えて試合を見ていました。そして、そこで山根が叩きだしたのは、なんと150km以上の数字だったのです。
今でこそ150km以上の球を投げる投手は沢山いますが、当時はごくごく稀な存在。145kmでもかなり速い方でした。ですから同僚から「150kmが出たぞ」と聞かされたときは、本当にビックリしました。そして、その試合から山根を本格的にマークするようになったのです。
山根の一番の持ち味は何と言ってもそのストレートでした。球速は常時140km以上で、調子がいいときは150kmをマーク。オーバースローから投げ下ろされ手元でグッと伸びてくるストレートは、本当に素晴らしいものでした。
同じ年に北別府を指名していますが、ストレートなら彼に負けないほどの威力だったと思います。『速い球を投げられる』という能力は、『球を遠くに飛ばす』という能力と同じように、持って生まれたものです。150kmの球を投げたいと思いどんなに練習をしても、投げられない人は投げられません。一方、コントロールは自分で意識して磨いていけばどんどん上達していきます。
山根のコントロールはまだまだでしたが、その速球に大きな可能性を感じ、ドラフト2位で指名することにしました。
しかし、山根はすぐにカープに入団することはできませんでした。1972年に指名した池谷(日本楽器)と同じく、所属チームから強く慰留されたのです。そのため、当時の『球団と指名選手との間の入団交渉期間(優先交渉権)は、ドラフト会議当日から翌年のドラフト会議前々日(2日前)まで』という野球協約を利用し、その年のシーズンオフに契約を結ぶことになりました。
山根が初勝利を手にしたのはプロ入り3年目の1979年7月12日でした。広島市民球場での巨人戦で高橋里志をリリーフした山根は、8回まで巨人打線を1点に抑える投球。140km後半の力強いストレートとフォークを武器に、王から2三振を含む9奪三振の力投を見せたのです。フォークはプロ入り後にマスターした球種で、今で言うSFF(スプリット・フィンガー・ファストボール)。ストレートと球速がほとんど変わらなかったため、打者はかなり苦しんでいたように思います。
山根と言えば、もう一つ忘れられないのが、初めに触れた日本シリーズでの活躍です。中でも印象に残っているのが1984年。阪急と日本一を争った最後の大一番です。第7戦、この試合の勝者が日本一、という大事な試合に先発した山根は、184cmという体格から投げ降ろす自慢のストレートとフォークで、阪急打線を翻弄。パ・リーグ三冠王のブーマーを1安打に抑えるなど、カープを3度目の日本一に導いたのです。
このシリーズ3度目の先発マウンドにも関わらず、疲れを見せず強力な阪急打線をねじ伏せた山根。そのスタミナと精神力には、本当に「恐れ入りました」という気持ちでいっぱいになりました。
通算成績は278試合、78勝64敗。防御率3.31。カープには10年在籍し、数多くの勝利に貢献してきました。私は、市民球場で見たあの剛速球と、日本シリーズでの力投が今でも頭に焼き付いています。
■備前喜夫(びぜん・よしお)
1933年10月9日生-2015年9月7日没。広島県出身。旧姓は太田垣。尾道西高から1952年にカープ入団。長谷川良平と投手陣の両輪として活躍。チーム創設期を支え現役時代は通算115勝を挙げた。1962年に現役引退後、カープのコーチ、二軍監督としてチームに貢献。スカウトとしては25年間活動し、1987~2002年はチーフスカウトを務めた。

