1975年カープのチームカラーが赤色に変わり、初優勝を果たした年から今年で50周年を迎えた。そして同じく2025年、山陽新幹線も全線開業50周年を迎えている。球団・選手・カープファンにとって新幹線は今やなくてはならない存在だ。

 ここでは、1975年の初優勝を含め、選手・コーチとして6度のリーグ優勝を経験した、カープのレジェンド・木下富雄さんとJR西日本担当者による『新幹線とカープ』にまつわる特別対談をお届けする。

カープOB木下富雄氏(左)と西日本旅客鉄道株式会社 松田大祐氏(右)

◆全線開業で東京まで約2時間短縮 

松田 山陽新幹線は1975年3月に岡山駅〜博多駅までがつながり全線開業しました。木下さんは前年の入団ですが、どのように移動されていたのですか?

木下 当時の新人や若手は移動の際に荷物を持たされていたんです。私は全員のヘルメット、自分の荷物やバット6本入りのケースを担いで移動していましたね。

松田 おそらく当時の広島から東京の移動ですと……特急『しおじ』と新幹線『ひかり』の乗り継ぎで約7時間ですね。

木下 岡山での乗り継ぎまでが長かったな……という思い出ですね(笑)。ただ、私はヘルメット係だったから、割と軽いほう(笑)。当時の移動はしんどかったですよ。

松田 報道などで昔のカープ選手は在来線の床で寝ながら移動したり……というシーンを見たことがあります。

木下 新人の頃は先輩と後輩がセットで移動でした。山本浩二さんと若手……のような形で。だから、当時のマネージャーは「お前はここに座れ」なんて、差し障りない場所を調整していましたよ(笑)。

松田 木下さんの入団時は新幹線が広島まで開業していない時ですが、どのように広島まで来られたのですか?

木下 指名されて初めて広島に来たのが、夜行列車のブルートレインでした。私は埼玉県出身で巨人ファンだったので、実はカープは一番行きたくない球団だったんですよ(笑)。ただ、1位指名されて「よろしくお願いします!」と、コロっと変わりましたけどね(笑)。

松田 変わっていただけて良かったです(笑)。1975年以降、選手のみなさんも新幹線移動となり、かなり楽になられたのですか?

木下 ジョー・ルーツが監督に就任して、チームカラーが赤になったり様々な改革がありました。また、移動面で言うと、野球道具などの荷物はトラックで運ぶようになりました。これで私たちは身軽になって、岡山での乗り換えもなくなったので本当に楽になりましたね。ずっと寝られるし、これは移動する上で全然疲れが違いますからね。そう考えると、新幹線による移動時間短縮は、カープにとっては本当に大きい出来事でした。

新幹線による移動時間短縮は、カープにとって本当に大きい出来事だったと語るカープOB木下富雄氏

松田 開業当時は広島から東京まで最速5時間8分でした。開業前は約7時間かかっていましたからね……。全線開業したことで、多くの方も広島に来るきっかけにもなっていたのではないかと思います。

木下 そうですよね。当時のカープファンのみなさんは勝ちに飢えていたと思います。3年連続最下位で選手がいくら3分の1以上変わったとしても、『まさか優勝せんじゃろ!』みたいな感じだったと思います。そこでルーツ監督が15試合で辞めて、ヘッドコーチだった野崎(泰一)さんが代行して4試合戦い、古葉(竹識)さんに引き継いで……さらに山本浩二さんや、衣笠(祥雄)さん、外木場(義郎)さんが20代後半で脂が乗っている状況もあり、この年カープは『赤ヘル旋風』と言われていました。夏頃からファンの方々も大盛り上がりになり、カープが強いので、県外から新幹線で広島に応援に来ていただくお客さんも増えていたかもしれないですね。

松田 初優勝は後楽園球場(当時の巨人本拠地)でしたが、新幹線で広島駅に戻られたときは、どんな様子だったのですか?

木下 広島駅に着いたら……ホームにものすごい数のカープファンのみなさんが待ち構えていて、階段を降りられないくらいでした。階段を降りたら……私のジャケットのボタンがなくなっていましたからね(笑)。あの時の広島駅の熱量はすさまじかったですよ。

松田 ファンのみなさんは入場券を買ってホームで待ち受けていたんでしょうね! 初優勝以降、移動する際にファンのみなさんの熱狂もすごかったのでしょうね。

木下 新幹線移動はまとまってグリーン車だったので、囲まれるようなことはなかったですが、先輩選手は真ん中あたりで、若手が全員ガードマン的に座っていましたね。当時、それこそ私たち若手は通路側で先輩方を守っていました(笑)。