2026年、33年ぶりに甲子園の地を踏んだ広島・崇徳高校。センバツ初出場・初優勝を果たしたメンバーのひとりが、のちにカープ機動力野球を体現する名手となる山崎隆造氏だ。
現在は母校野球部の総監督を務める山崎氏が、「プロの世界での恩師」と慕うのが故・古葉竹識監督。ここでは山崎氏が、自身の選手・指導者としての礎を築いた古葉監督との思い出を振り返る。(『広島アスリートマガジン2022年1月号』掲載記事を再編集)
◆ものすごく、発想力の豊かさがある方だった
古葉さんとは引退後もOB会で毎年お会いしていましたが、いつも優しい笑顔で「頑張ってるか?」と声をかけていただいていました。最後にお会いさせていただいたのは、コロナ禍になる前です。2021年の訃報を知ったときは、言葉がありませんでした。
私は17年間、現役としてプレーをさせていただきましたが、現在まで野球に携わることができている原点を作ってくれたのが古葉さんだと思っています。私にとっては大恩人です。古葉さんとの出会いがなければ、今の自分がなかったと言い切れるくらいの存在です。
振り返ってみれば、初めてお会いしたのはプロ入りした1977年のことです。当初は『カープが初優勝した時の監督』というイメージを持っていましたが、寡黙で口数が少ない方で、眼力が強い人という印象でしたね。
私にとってプロ野球界で生き延びるきっかけの1つとなったのが、スイッチヒッターへの挑戦です。それを進言してくれたのが古葉さんでした。走る事に関しては自信を持っていましたが、打つことに関しては『どうにもならないな……』と思っていた状態でしたので、古葉さんからの進言に対して「挑戦させてください」と二つ返事でした。結果的にスイッチに挑戦したことで左打ちの感覚を右打ちに活かすこともできましたし、結果を残せるようになりました。
そしてもう一つ、私という選手が生かされたのが、内野手から外野手にコンバートされたことです。1980年代当時、複数ポジションを守れるユーティリティープレイヤーはあまりいなかったのですが、発想力の豊かさがものすごくある方でした。古葉さんの数々のアイデアに私は乗せてもらったと思っています。
采配面で印象的なのは「ボールは1つしかない。そこから目を切るな」と言われたことです。そこから集中力の大事さであったり、気を抜けない感覚を養っていけました。野球にミスは付きものですが、ケアレスミスやつまらないミス、準備不足のミスに対してはものすごく厳しい監督でした。
現役時代は簡単に口を聞けるような存在ではありませんでしたが、引退後、古葉さんが東京国際大の監督時代に大学にお伺いしてお会いさせていただく機会がありました。大学の敷地内を古葉さんの運転で私を助手席に乗せて案内してくれたことは、私にとって夢のような時間でしたし、今も本当に良い思い出となっています。
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