大学時代に頭角を現し、2002年のドラフト自由獲得枠で阪神に入団した江草仁貴(ひろたか)。2005年にはロングリリーフもできる中継ぎ左腕として、チームのリーグ優勝に貢献した。

 2009年にはキャリアハイの62試合に登板。キャリア後半の2012年からは地元球団のカープでプレーし、2017年限りで現役を引退した。紆余曲折を経て、そのキャリアを広島で終えた男の野球人生に迫る。

プロ3年目の2005年に一軍定着を果たし、リリーフとして51試合に登板した江草仁貴氏。

 2002年のドラフトで夢だったプロ野球の世界に入ることができました。自由枠だったからとかそういうことは関係なく、本当にうれしかったことを覚えています。

 ただ専修大時代に左肘を痛めていたので、阪神に入団して最初の半年間はリハビリの日々でした。球も投げられず、辛い時間だったことを覚えています。当時はインナーマッスルの強化やランニングばかりに終始していたこともあり、とにかく早くマウンドに上がりたい一心でした。

 ただ、今振り返ると本当にあの時しっかりとリハビリをしていたおかげで、その後たくさんの試合で投げることができたのだと思いますし、プロ野球生活のスタートは多少遅れたとはいえ、自分を見てくれたトレーナーには本当に感謝しています。当時は『なんでこんな地味な練習ばかりなのか』と感じていましたが、周囲の方々の協力があったからこそ、地道なトレーニングに取り組むことができたと思っています。

 リハビリが順調に進んだこともあり、その年の秋に一軍デビューを果たしますが、翌2004年の一軍登板はわずか9試合のみ。なかなかチャンスをつかみきれませんでした。

◆『SHE』と呼ばれた桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴

 一軍に定着できたのは、 プロ3年目となる2005年のシーズンでした。この年はプロに入って初めて、肩や肘に不安を感じることなく投げることができたシーズンでした。51試合に登板し、一軍の戦力として少しはチームに貢献できたのではないでしょうか。多くの試合で起用してもらいましたし、初めてリーグ優勝を経験することができて、2005年は本当に幸運な一年だったと思います。貴重な経験をさせてもらいました。

 この年優勝を成し遂げる上で大きな原動力となったのが、ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之による勝利の方程式『JFK』でした。実はその一方で桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴の3人も『SHE』なんて呼んでいただいていたことをご存じでしょうか? まぁ『JFK』の存在が大きすぎて比較するのも恐れ多いですし、カープファンの方々からすると「SHEって何?」って感じかもしれませんね(苦笑)。

 同世代の選手が多かったブルペン陣の仲は本当に良かったです。一緒に練習して、ブルペンで準備して、試合に投げて、試合後は一緒に食事に行く。こんな毎日を過ごしていたので、ずっと一緒にいたような気がします。毎日が楽しかったですし、それぞれの投手が切磋琢磨することで、とても充実した時間を過ごしていました。

 2005年は登板した全51試合が中継ぎでした。考えてみれば、リリーフは僕の性格に合っていたのかもしれません。それは決してメンタルが強いということではありません。むしろ僕の場合メンタルは弱い方かもしれません。

 現役時代は自分自身のことを分析しても『取り柄のない投手』だと思っていました。ではそこで、どうすればいいか? ということを考えた時に、打者に『強い姿』を見せること、『強い投手』に見せることが大事なのではないかと考えるようになったのです。

 また自分は気持ちの切り替えが比較的早い方でした。基本的にプラス思考ですし、一晩寝れば、悩んでいたことも忘れることができます。こういう部分は毎日のように出番があるリリーフ向きの性格だと言えるのではないでしょうか。