背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

カープが25年ぶりのリーグ優勝を果たした2016年に、再び背番号25を背負った新井貴浩氏。

 プロ野球ファンは、野球の舞台で起きる様々な事象にドラマを感じ取る。選手の移籍にもドラマがつきものだが、今回ご紹介する背番号『25』は名脇役として、カープで起きた大きなドラマに深みを与えた。

 1950年の球団創設から、途切れることなく使われてきた背番号『25』。最初に定着したのは、後には監督にも就任する阿南準郎だ。佐伯鶴城高時代は九州一の内野手と評され、カープからスカウトを受け1956年に入団すると、堅実な守備で1年目の夏から一軍定着を果たす。セカンド、ショート、サードなど様々なポジションに適応し、『25』をつけた1960年からはサードとしてレギュラーに定着した。

 当初の登録名は阿南潤一だったが、1964年に準郎と改名。同シーズン序盤には首位打者争いに加わり、キャリア初の規定打席に到達した。1968年に移籍した近鉄で現役を終えると、古葉竹識監督のあとを受けて1986年にカープの監督に就任。1年目からチームを優勝に導く手腕を見せた。

 阿南の8シーズンという年数を塗り替えたのが、1973年ドラフト1位入団の木下富雄だ。ルーキーイヤーの1974年シーズンから一軍に定着し、勝負強い打撃と俊足で、黄金時代の貴重な名脇役として活躍した。

 内野全てのポジションだけではなく、時には外野も守る起用さで5度のリーグ優勝、3度の日本一に貢献。カープの黄金時代を支え続けた。1987年シーズン後の引退まで14年にわたって『25』で活躍した後は、カープのチーフコーチや二軍監督も務めた。口ひげを生やした風貌から、ファンからは「パンチョ」の愛称で親しまれ、現在は広島市内で居酒屋『カープ鳥きのした』を営んでいる。

 1999年ドラフト6位で入団し、背番号『25』史の“主役”となったのが新井貴浩だ。1年目から53試合出場7本塁打と頭角を現し、2001年からはレギュラーに定着。2005年には43本で本塁打王も獲得。同年には初のベストナイン入りも果たした。

 常々カープ愛を語り、一つのチームでプレーし続けることを理想と掲げていたが、2007年にはプロとしてさらなる飛躍を遂げるためにFA権を行使して阪神に移籍。中心的存在としてチームを牽引していただけに衝撃が走ったが、新井本人にとっても大きな決断だった。