背番号は時に選手の代名詞として語られるなど、アスリートにとって大きな意味を持つことも少なくない。ここではカープの選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。

勝負強い打撃で一時は代打の切り札としても起用された小窪哲也選手。

 1950年の球団スタート時に身につけたのは外野手の山口政信だったが、1シーズンで『12』に変更。2年の空白を経た後は5年間、毎年持ち主が変わるという状況だった。初めて安定を見せたのが1958年、内野手の小坂佳隆が入団してからである。

 法政大時代から活躍した小坂はルーキーイヤーから正二塁手となり、俊足と“天才”とも称された華麗な守備を武器に活躍。1962年には自己最多の126試合に出場、ベストナインにも選出された。1965年に引退するまで8年間、背番号は『4』のままだった。

 続く“安定期”は1971年、“安打製造機”と言われた水谷実雄によってもたらされた。1965年、日本球界初のドラフトでカープから4位指名を受け投手として入団。当初は『38』をつけ、2年目の1967年に野手に転向し、1970年にはレフトのレギュラーに定着した。

 背番号『4』を背負ってからの活躍は目覚ましく、まず初年には2試合連続サヨナラ打を放つなどし、リーグ3位の打率.283を記録。1978年には打率.348で首位打者に。1979年と1980年には2度の日本シリーズで5本塁打を放つなど、その勝負強さは際立っていた。

 1982年に阪急に移籍するまで12シーズンを背番号『4』で過ごし、1983年には114点で打点王を獲得。この年はキャリアハイの36本塁打も放っている。しかし翌1984年に頭部に死球を受け、その影響もあり1985年に現役を引退した。