◆カープ野球を体現した正田耕三

 その後、ヘッドスライディングと隠し球で人気を得た助っ人・アイルランドが2年間つけたのを経て、1985年にはいよいよ正田耕三の登場だ。社会人の新日鉄広畑時代、1984年にロス五輪に出場して金メダル獲得に貢献。同年のドラフトで2位指名を受けて入団し、アイルランドの退団で空いた背番号『4』をつけた。

 即戦力を期待されたプロ初年は打率.180と不本意な成績に終わったが、打開策として終盤にスイッチヒッターに転向。努力に努力を重ねたのが実り、2年後の1987年には正二塁手の座を確保し初の首位打者となった。これはスイッチヒッターとしては初、本塁打ゼロでの獲得も2リーグ制では初という、まさに“巧打”の象徴のような記録となった。

 翌1988年にも首位打者を獲得し、1989年には34盗塁で盗塁王にも輝いた。ベストナインは2年連続、ゴールデン・グラブ賞も5年連続で受賞するなど、走攻守揃った名バイプレーヤーとしてチームを牽引し、1991年には二番打者としてチームの優勝に貢献した。

 正田のエピソードとして残っているのは、とにかく“努力し続けた”という話ばかり。入団前の実績がプロでは通用しないことを思い知らされると、誰もが認めるほどの努力を重ね、その成果を着実にグラウンドで披露した。泥臭く派手ではないが“プロの仕事”をこなす姿は、ある意味カープの野球を象徴するものだった。

 正田はコーチ兼任でプレーした1998年シーズンを最後に現役を引退。そのままコーチとして球団に残り、背番号は『78』に変更した。その後、巧みな守備で「シーツ先生」と呼ばれたシーツらを経て、2005年には尾形佳紀のものとなった。