昭和25年。原爆投下により焼け野原となった広島の地で、絶望感に打ちひしがれていた広島市民の夢や希望を背負って発足したのが『カープ』だった。ゆえに初の”市民球団“であるカープと広島市民との間には強い絆が存在する。ここではカープ誕生時から選手として在籍し、“小さな大投手”長谷川良平さんとバッテリーを組んだことでも知られる長谷部稔氏のインタビューを再録する。
(『広島アスリートマガジン』2010年1月号掲載)

ナイター設備を備えた球場として1957年7月に開場した旧広島市民球場。

◆選手自らが資金集めに奔走

 解散の危機をどうにか乗り越えた後は、後援会結成の話が上がるたびに私たち選手はすぐその場所に駆けつけました。私たち若い選手は話すこともないですから歌を歌いましてね。

 長谷川さんは話すのが得意な方ではないですから、「湯島の白梅」をよく歌っていました。それでもみなさんカープの選手が来たということで喜んで下さいましてね。こうやって各地域に後援会が広がっていき、カープはますます広島に根付いていったのです。

 また、後援会が立ち上がる一方で、たる募金が始まったのもこの頃でした。「カープを助けにゃいけん」というので広島総合球場の前に樽が置かれたのです。1日10万円を超す金額が集まることもありました。

 その中から私たちの給料も支払われたのですが、100円札がクシャクシャで、寄付されたものだと分かるんですよ。もらうのが当たり前とは思わず、みんなが応援して助けてくれているというのをヒシヒシと感じました。

 それに私たち選手も資金集めのために精力的に活動をしました。2年目のオフ、私と若手投手4名とで強化合宿を行ったのですが、昼間は練習をし、夜は本通の角に立って「カープ鉛筆」を売りました。恥ずかしいという気持ちは一切なく、カープのために何とかしなければという思いしかありませんでした。

「頑張れよ」と声をかけられることも多くて、ありがたかったですね。みなさんカープのためにひと肌脱ごうと、たくさん買って下さいました。それほど広島県全体に、カープをつぶしてはならない、何とか強くしようという思いがあふれていました。