マーティー・レオ・ブラウン/1963年1月23日生、アメリカ出身。92年に助っ人外国人野手として広島に入団。3年間で235安打、50本塁打を記録した。06年、広島に一軍監督として復帰。09年まで4年間、指揮を執った。

 マーティーが行ってきた数々の改革の中でも、僕に直結したものが中継ぎ投手陣のローテーション制でした。最大でも2連投すれば、翌日の登板は行いませんでしたし、とにかく投手陣の故障のリスクを回避するというものです。

 当時は日本球界で中継ぎの勝ちパターンを形成するチームが増えていた時期でした。それまでカープは誰が投げるかがはっきり決まっていなかったので、マーティーが完全分業制としたことで、リリーフ投手陣は準備がしやすくなり、僕としてもとても調整しやすかったです。

 またマーティーは「俺の扉はいつでも開いているから、何でも聞いてこい」と、選手に対してオープンなスタンスでした。僕は積極的に意見することも多かったのですが、「四球を気にするのではなく、とにかく球を低めに集めなさい。君たちの役割は低めに投げてゴロを打たせることだ」と言われたことがありました。

 それはどういうことかいうと、リリーフは長打を打たれれば失点する確率が高くなる、このリスクを回避するという考えです。また『結果的に四球になったとしても低めに投球すれば、内容は問わない』という方針はとても画期的でした。個人的に直球の勢いが衰えてきた時期でもありましたし、投手としての意識改革、モデルチェンジをする大きなきっかけになりました。

 野球でも積極的にコミュニケーションを図る監督でしたが、それはグラウンドの外においても変わりませんでした。時には「みんなでアメリカンフットボールを見よう」と数人の選手を誘ってくれて、一緒に食事に行ったり、お酒を交えて楽しくコミュニケーションを取る機会もありました。

 日本的な考えで言えば、監督と選手という間柄でそのようなことは希なことだと思いますが、そこは外国人ならではの考えだと感じましたし、マーティーに対しては『監督・上司』というよりも、より選手に近い『同士』という感覚で普段から接することができていました。