広島県の高校球児としてプレーをしたプロ野球選手、OBが高校当時を振り返る本企画。今回は、県立広島工業高校出身の新井貴浩氏(元広島東洋カープ)に当時の思い出を語ってもらった。
広島県高校野球界で“県工”の愛称で知られる同校は、春のセンバツ5回、夏の甲子園5回出場を誇る。1992年〜1995年に在籍していた新井氏は甲子園出場こそ叶わなかったが、2年秋からの新チームではキャプテンを務めるなど、中心選手として高校野球生活を過ごしていた。
“新井氏が語る高校時代の思い出”の1回目は、広島工業を選んだ理由と練習の思い出を中心にお送りする。
◆まずは自分がしっかりしないといけない
僕が少年時代の頃は広商(広島商業)、広陵が強い時代で、そこで甲子園を目指すというのが野球少年からすると定番のようなところがありました。僕は最初、広商に行きたいなと思っていたのですが、中学の先輩から「県工(広島工業)に入って、強い高校に勝つのがカッコいいだろ」と言われて、それに感化されて県工に決めました(笑)。
入学当時は同学年の野球部員は100人以上いました。最初は1年生だけで練習をするのですが、とにかくずっと走っていました。それがすごくキツかったですね。
中でも印象に残っているのはタイム走です。学校の練習グラウンドの一塁線からレフト方向に向かって往復走る、三塁線からライト方向に向かって往復走るという練習です。県工は当時サッカー、ラグビーも強くて同じグラウンドを使用していて、その構造上三塁側スタートの場合は150mくらいなんですが、一塁側から走る場合の距離が長くて……これは本当にしんどかったですね(苦笑)。
当時は夜に練習が終わって朝練、という毎日を過ごしていましたが、夜はご飯を食べながら寝そうになるくらいでした。それで次の日は朝練に備えて5時起きですからね。そのくらいキツかったですけど、両親も大変だったと思いますし、今思っても感謝しかありません。
厳しい練習を耐えることができたのは、やはり「負けたくない」という気持ちが強かったからだと思います。苦しいことから逃げないという強い気持ちを鍛えられたのは、高校時代に培われたのかもしれません。
2年生秋に新チームになって僕は主将に指名されました。主将になったとき「まずは自分がしっかりしないといけない」と思いました。
ですので自分に厳しく、チームメートに対しても厳しかったかもしれません。主将になったことで意識が変わりましたし、真剣だからこそ同級生と衝突することもありました。この時期は大人になろうとする思春期で多感な時ですから、熱くなるときもありましたが、今となっては良い思い出です。(第2回に続く)