2022年の幕が上がった。昨年はカープ、サンフレッチェ共に、思うような結果を残せなかったが、若手が台頭するなど、未来への希望を抱かせてくれる戦いを見せてくれた。また、東京五輪が開催されるなど、スポーツがおおいに盛り上がった一年になったと言えるだろう。

 広島アスリートマガジンWEBでは、これまでカープやサンフレッチェをはじめ、広島のスポーツの魅力を伝えてきた。そこで、昨年特に反響の多かった記事を振り返り、2022年のスタートを切る。

 ここでは、サンフレッチェ広島の選手に特化し、時代を彩った名選手の足跡を背番号と共に振り返る。今回は、ストライカーの番号と言われる背番号「11」を取り上げる。(2021年9月23日掲載)

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歴代2位となるJ1通算161得点など、数々の金字塔を打ち立てた佐藤寿人。

◆得点後に『阿波おどり』を披露したストライカー

 野球の背番号は、1番が投手、2番が捕手など、ポジションを示すものでもあるが、サッカーも同様だ。欧州と南米、さらに国によっても違いはあるものの、11番は左ウイングの番号とされており、プレーでは主にドリブルで突破してチャンスを作ることが期待される(左サイドハーフ、2トップの左サイドなどを示す場合もある)。

 1993年5月16日、サンフレッチェのJリーグ開幕戦で11番をつけたのは、FW盧廷潤(ノ・ジョンユン。当時の読みはノ・ジュンユン)。韓国籍Jリーガーのパイオニアで、スピードを生かしたドリブルが武器のプレースタイルは、11番にふさわしいものだった。

 94年にはサントリーシリーズ(ファーストステージ)優勝に貢献し、韓国代表としてもアメリカW杯でプレー。日本が出場できなかった世界最高峰の舞台に立つ姿を見て、筆者もうらやましく思ったものだ。現在も韓国籍の選手はJリーグの各クラブでプレーしており、開拓者という意味でも日本サッカー界に大きな影響を与えた。

 固定背番号制が始まった1997年には、笛真人が11番をつけている。サンフレッチェの前身のマツダSC時代に加入し、Jリーグ開幕後は徐々に出場機会を増やした。FWやサイドハーフでプレーし、主戦場は右サイドだったが、ドリブル突破が持ち味という点でウイングに近いスタイルだった。

 2000年からはMF藤本主税が11番をつけた。1999年にアビスパ福岡から完全移籍で加入し、プレーする位置はサイド主体ではなかったが、やはりウイングのごとく、切れ味鋭いドリブル突破を武器とするアタッカー。在籍中は2000年シドニー・オリンピックを目指すU-23代表や、2002年日韓W杯を目指すA代表でもプレーしている。

 山口県生まれだが、幼少期から徳島県で育ったこともあり、得点後のゴールパフォーマンスで『阿波おどり』を披露することで有名だった。阿波おどりには、手足を大きく動かす『男踊り』と、内股で、手や腕の動きが小さい『女踊り』がある。本人も当時「意識して使い分けている」と語っており、あらためて映像で見ると、確かに2パターンのパフォーマンスを見せていた。

 2003年から11番を託されたのはFW茂木弘人。聖光学院高(福島)から加入2年目で、J2で23試合に出場して5得点を挙げ、1年でのJ1復帰に貢献した。やはりウイングのごとく、爆発的なスピードを生かした突破力が武器で、サンフレッチェの後にプレーしたクラブではサイドバックでもプレーしている。

◆サンフレッチェの歴史を語る上で欠かせないストライカー

 そして2005年から、サンフレッチェの歴史を語る上で欠かせない男が、背番号11をつける。FW佐藤寿人だ。

 ジェフユナイテッド市原、セレッソ大阪を経て、ベガルタ仙台で大活躍して評価を高めていた佐藤を、サンフレッチェは1億6000万円とされる移籍金を払って獲得した。当時、強化部長を務めていた織田秀和氏(現ロアッソ熊本ゼネラルマネジャー)が「日本人選手を獲得するための移籍金としてはクラブ史上最高額」と証言する、クラブにとっても大きな決断を経ての加入だった。

 佐藤が仙台時代から11番をつけていたのは、カズ=三浦知良へのあこがれから。高校を中退してブラジルに渡って現地でプロとなり、1990年に帰国してJリーグと日本サッカー界を代表するスーパースターとなったカズは、ブラジルでは左ウイングでプレーしており、11番をつけていた。帰国後に日本代表で得点力を期待されたのを機に、徐々にストライカーとしてプレーすることになるのだが、背番号は54歳となった現在も11をつけている。

 ちなみに佐藤はサンフレッチェ加入時、最初は別の背番号を強化部から打診されていたという。その番号になっていたら、その後の本人とクラブの歴史も変わっていたかもしれない。

 11番のストライカー・佐藤のサンフレッチェでの足跡は、あらためて振り返るまでもない。一度はJ2に降格したものの、残留して1年でのJ1復帰に貢献。2012年はサンフレッチェをJ1初優勝に導き、MVP、得点王など個人賞も総なめにした。2013年のJ1連覇、2015年の3回目の優勝&クラブW杯3位という黄金時代は、佐藤が決めた数々のゴールがあったからこそ。

 2016年シーズンを最後に佐藤が移籍で退団した後、11番をつけた選手はいない。誰かがつけることになったとしても、期待の大きさゆえに向けられる視線は厳しく、その選手にかかる重圧も大きいだろう。簡単には後継者が見つからないと思われるのは、それだけ佐藤がサンフレッチェにもたらしたものが大きいことを示している。

文/石倉利英(スポーツライター)